夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

隣組の葬儀参列

2010-09-03 06:52:36 | つれづれなるままに
 最高気温32.9℃という猛暑の中、昨日は隣組の「葬儀」でした。
 かつて村の葬儀は、「結い」という精神で村人が総出で関わり、見送っていました。それは個人との関わりが濃密だったことを物語っています。そして家の構えも、いわゆる冠婚葬祭を意識した部屋を設けていました。
 新潟では亡父の葬儀までは自宅で葬儀を行い、初七日を迎えました。葬儀の最中の仕出しも、総て隣近所のおばさんたちが割烹着を着て手伝っていました。葬儀の段取りも村の長寿者(物知り)が取り仕切っていました。
 しかし現在はあの映画「送り人」のように、葬儀屋さんが総てを演出し、葬儀の場所もセレモニーホールで行われるのが通常となっています。葬儀の当事者にとってはお金さえ出せば、総て取り仕切ってくれるし、準備や後片付けの負担がありません。少人数の家族の場合、こんなに助かることはありません。でもそこにあるはずの人と人との付き合いの歴史がなんだか薄まったような感じがしてなりません。
 弘前の義父の葬儀では、ともに暮らしともに育った個人の友人が祭壇の前で、遺影に向かって哀しさを呼びかける姿がありました。
 個人が長寿でそして事故死でない限り、悲しみはあっても人々は自然に受け入れる雰囲気をかもし出します。昨日の個人も88歳で逝去されたので、会場は人生の長旅を終えた故人に対して「お疲れ様」という雰囲気がありました。そして何よりの変化は、斎場の近代化と礼服を着ても尚寒さを覚える冷房でした。おかげできょうは鼻水が出て困ります。