私が最も感銘を受けたのは「子どもの心に耳をすます」というテーマでの、奈良女子大学 真栄城輝明教授(臨床心理士)の講演であった。
私はカメラを構えていたために、メモを取ることはできなかった。しかし、教授のユーモアを交えながらも、内容の濃い語り口は心の中に様々な問題を提起してきた。
13世紀の王様が子どもの養育の実験をしていた。子どものない親に捨て子を育てさせた。ただし条件があった。食べ物はあげても、決して言葉をかけてはならないという条件である。そしてその子どもはその後どのようになったのかという問いが会場に向けられた。様々な回答の中に、「死んだ」というものがあった。教授は「そう!死んだが正解」と答えた。結論は死んだというのであった。愛情を子どもは感じられないと、食べ物だけでは生きてはいけないというのがその回答である。
私は自分の子育てや職業的なアプローチ環境で、重いハンディキャップを背負って生きるいのちと向き合ってきた。その人たちは自らの言葉をコミュニケーションとして行うことは難しい。しかし、私たち介護者がその人々にアプローチするときに、無言でケアすることはないし、またあってはならないと常々意識して言って来たし、行ってきたと思う。何も言ってもわからないと思ってケアするのではなく、わかってくれるはずという思いで、行為を共有していくことの重要さを私たち支援者は肌で感じてきた。言葉そのものの意味も大切であるが、その言葉に添えられる気持ちが穏やかなものであるか、不機嫌なものであるかでまた受け取る側の気持ちも変わってくるのではないだろうか。そんなことを教授の話を聞きながら、重度しょうがい者に重ねて思っていたことである。
教授はこのほか谷川俊太郎の詩や、子どもたちが心の中の悩みを託した詩を紹介した。子どもたちは大人たちの様々な身勝手な言動の中で、その影響を受けて揺らいでいるし揺らぎやすい存在だということがわかった。私たち大人がその声なき声に耳を傾けることが如何に大切かを、あらためて思うことであった。
私はカメラを構えていたために、メモを取ることはできなかった。しかし、教授のユーモアを交えながらも、内容の濃い語り口は心の中に様々な問題を提起してきた。
13世紀の王様が子どもの養育の実験をしていた。子どものない親に捨て子を育てさせた。ただし条件があった。食べ物はあげても、決して言葉をかけてはならないという条件である。そしてその子どもはその後どのようになったのかという問いが会場に向けられた。様々な回答の中に、「死んだ」というものがあった。教授は「そう!死んだが正解」と答えた。結論は死んだというのであった。愛情を子どもは感じられないと、食べ物だけでは生きてはいけないというのがその回答である。
私は自分の子育てや職業的なアプローチ環境で、重いハンディキャップを背負って生きるいのちと向き合ってきた。その人たちは自らの言葉をコミュニケーションとして行うことは難しい。しかし、私たち介護者がその人々にアプローチするときに、無言でケアすることはないし、またあってはならないと常々意識して言って来たし、行ってきたと思う。何も言ってもわからないと思ってケアするのではなく、わかってくれるはずという思いで、行為を共有していくことの重要さを私たち支援者は肌で感じてきた。言葉そのものの意味も大切であるが、その言葉に添えられる気持ちが穏やかなものであるか、不機嫌なものであるかでまた受け取る側の気持ちも変わってくるのではないだろうか。そんなことを教授の話を聞きながら、重度しょうがい者に重ねて思っていたことである。
教授はこのほか谷川俊太郎の詩や、子どもたちが心の中の悩みを託した詩を紹介した。子どもたちは大人たちの様々な身勝手な言動の中で、その影響を受けて揺らいでいるし揺らぎやすい存在だということがわかった。私たち大人がその声なき声に耳を傾けることが如何に大切かを、あらためて思うことであった。