夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

「僕は人生について・・・」その4「人生の経験とは」

2009-03-11 07:50:27 | つれづれなるままに
 「人生の経験とは幸福を積み重ねることである」

 苦労とは、すればよいというものではない。苦労がすっかり板につき、顔にまで出てしまう人生は不幸である。苦労を積み重ねるのではなく、日々の幸福を積み重ねることこそが、真の人生経験なのである。このあたりを履き違えると、たとえ立志伝中の人物といえども内実はひどく孤独であったり、人格が破綻してしまっていたり、ただの守銭奴や、いやな奴であったりする。これはすでに悲劇でしかない。
                         浅田次郎「絶対幸福主義」

思うに自分の学生時代から就職したての頃までは、思いっきり下ばかりを見ているようなネガティブな考えが頭に貼り付いていた気がしている。部屋中の壁一面に自分の捨てきれない負の特徴を紙に書いて毎日それを見ながら暮らしていた。よくも酒も飲まずにできたものだと思う。そしていつもめそめそと泣いていた。
 その思いが変わったのは、しょうがい児施設に入所している、重介護の青年A君に出会ってからだと思う。ダウン症・緑内障・重度の知的障害などの様々な制約を生まれながらにして負った彼は、私の人生の師匠となった。人生を気張らずに、あるがままに受け入れようとしている彼の生き方が、たまらなく自分の生き方に刺激を与えてくれた。
 それから現在に至るまで、物事の視点をポジティブな見方に置くようになった。どんな人にも必ずある良いところ。それを伸ばすことこそが、その人の人間復権に他ならないからだ。ある時に脳の神経細胞の話を聞いたことがある。一般的に人間は、生涯を閉じるまでに12分の1程度しか脳の神経細胞を使い切ることなく終えるというのである。又逆には脳の6分の5がダメージを受けていても、6分の1で生きた重度しょうがい児がいた。ダメな神経細胞を周辺の神経細胞がカバーする機能を人間は予め持っているのだ。そういう意味でも、どのような状態であれよりよく生きようとする姿勢は、その人の幸せを呼んでくることに他ならないと私は信じている。

 

「僕は人生について・・・」その3「家族」

2009-03-11 06:45:25 | つれづれなるままに
 存亡禍福は皆己に在るのみ。天災地妖もまた殺ぐこと能はざる也」(孔子)

 幸福も不幸も、すべて自分が招くのである。どのような運命でさえ、その事実を揺るがすことはできない。
                      浅田次郎「オーマイ・ガアッ!」

 母の入院先のベッドをかつての同僚だった友人が、時折見舞いに来るらしい。私がたまたま帰郷時のことだ。ベッドサイドに兄と妹、家内と見舞っている時、マスクをしたおばあさんの訪問があった。見舞い客だと思ったのか、その老人は急いでまた帰ろうとしたが、妹が呼び止めた。マスク越しなので「あれ?」と思ったが、話をし始めたその老人がかつて私の小学校時代の教員で、K先生だと気づいた。妹はK先生の息子と同級生だったらしくて、思い出話に花が咲いていた。
 K先生の記憶は「K学級」というクラスを持っていたから、特に記憶として鮮明に残っている。特殊学級の担任で、知的な遅れを持つ生徒たちの担任だったのだ。ぼくはある時そのクラスのメンバーと自分は、何が違うのだろうかと思ったことがあった。なぜそういうクラスに分けられているのか、その基準がわからなかったからだ。そして自分自身の学力も転校したばかりの自分には疑念を持っていたからだった。
 そのK先生がふと口ずさんだことは、「息子たちにあなたたち兄弟妹の親孝行ぶりを話して聞かせている」ということだった。K先生が云うには、息子たちとは離れて一人で暮らしているという。そして息子たちは、「母さんが倒れたら頻繁に見舞いに行くようになるから・・・。」と云われたと寂しそうに笑っていた。
 ぼくは息子さんが言ったことは、僕たちにも当てはまるのではないかと思った。それは母が倒れるまでは、母のもとにこんなに頻繁には訪問していなかったということだ。父が亡くなったときには、しばらく訪問回数が増えた。しかし倒れる直前までは、ほとんど帰郷しなかった。今兄弟たちから感謝されるのは、「2年前にお前が北海道旅行の計画をしてくれなかったら、結局母との思い出はできなかった」と。僕の思いの中にも何かしら、自分自身に都合のよい思い込みがあったような気がする。それは、祖母(母の母)が94歳まで生きたこともあったし、母がいつまでも健康だと思っていたことでもある。しかし今振り返ってみれば、母は徐々に健康を害し始めていたのだった。旅行をした後、ヘルペス(帯状疱疹)にかかって寝込んだり、風邪を引きやすくなって起き上がれないことも何回かあったのだった。
 4月中旬にいよいよ母は退院するらしい。ぼくはまた帰郷をして、母の退院がスムーズに行くように助力したいと思っている。これまでの親不孝をわびる、今の僕の気持ちかもしれない。