夢発電所

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「僕は人生について・・・」その3「家族」

2009-03-11 06:45:25 | つれづれなるままに
 存亡禍福は皆己に在るのみ。天災地妖もまた殺ぐこと能はざる也」(孔子)

 幸福も不幸も、すべて自分が招くのである。どのような運命でさえ、その事実を揺るがすことはできない。
                      浅田次郎「オーマイ・ガアッ!」

 母の入院先のベッドをかつての同僚だった友人が、時折見舞いに来るらしい。私がたまたま帰郷時のことだ。ベッドサイドに兄と妹、家内と見舞っている時、マスクをしたおばあさんの訪問があった。見舞い客だと思ったのか、その老人は急いでまた帰ろうとしたが、妹が呼び止めた。マスク越しなので「あれ?」と思ったが、話をし始めたその老人がかつて私の小学校時代の教員で、K先生だと気づいた。妹はK先生の息子と同級生だったらしくて、思い出話に花が咲いていた。
 K先生の記憶は「K学級」というクラスを持っていたから、特に記憶として鮮明に残っている。特殊学級の担任で、知的な遅れを持つ生徒たちの担任だったのだ。ぼくはある時そのクラスのメンバーと自分は、何が違うのだろうかと思ったことがあった。なぜそういうクラスに分けられているのか、その基準がわからなかったからだ。そして自分自身の学力も転校したばかりの自分には疑念を持っていたからだった。
 そのK先生がふと口ずさんだことは、「息子たちにあなたたち兄弟妹の親孝行ぶりを話して聞かせている」ということだった。K先生が云うには、息子たちとは離れて一人で暮らしているという。そして息子たちは、「母さんが倒れたら頻繁に見舞いに行くようになるから・・・。」と云われたと寂しそうに笑っていた。
 ぼくは息子さんが言ったことは、僕たちにも当てはまるのではないかと思った。それは母が倒れるまでは、母のもとにこんなに頻繁には訪問していなかったということだ。父が亡くなったときには、しばらく訪問回数が増えた。しかし倒れる直前までは、ほとんど帰郷しなかった。今兄弟たちから感謝されるのは、「2年前にお前が北海道旅行の計画をしてくれなかったら、結局母との思い出はできなかった」と。僕の思いの中にも何かしら、自分自身に都合のよい思い込みがあったような気がする。それは、祖母(母の母)が94歳まで生きたこともあったし、母がいつまでも健康だと思っていたことでもある。しかし今振り返ってみれば、母は徐々に健康を害し始めていたのだった。旅行をした後、ヘルペス(帯状疱疹)にかかって寝込んだり、風邪を引きやすくなって起き上がれないことも何回かあったのだった。
 4月中旬にいよいよ母は退院するらしい。ぼくはまた帰郷をして、母の退院がスムーズに行くように助力したいと思っている。これまでの親不孝をわびる、今の僕の気持ちかもしれない。

 

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2 コメント

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親であること (りんご)
2009-03-11 19:27:11
親とは苦しく寂しいものですね。

色々と考えで出たのが上記の言葉です。
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りんごさんへ (なりたはるみ)
2009-03-12 07:05:15
 忙しいということでの正当性と、実態の乖離はまさに心の問題なのかもしれませんね。忙しさは心が亡ぶと書くように、その気がないということなのでしょう。相互に心の交流の機会があれば、寂しさも苦しさもないのにと思います。親という字も、実は木の上に立って見ると書きますから、子の自立や安全を見守る存在でしかないのかもしれません。
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