音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

ノー・コード (パール・ジャム/1996年)

2013-08-03 | ロック (アメリカ)


前作、「バイタロジー」のレビューでも少し触れたが、パール・ジャムの去就、というか彼らのスタンスが否応無しに注目される作品となった。そして、それに対しての彼らからの回答はヘヴィなロックの王道の提言であった。

少しだけ、カート・コバーンとグランジをおさらいすると、グランジの発祥は(筆者は・・・)ソニック・ユースだと思っているが、この音楽を世界的なものにしたのは当然ニルヴァーナでありその集大成は「ネヴァー・マインド」であること(このブログではなんども述べているが)は衆目の一致するところである。そして、当時、グランジファンのみならず、ニルヴァーナのライバルという存在としてこのパール・ジャムは位置づけられた。しかし、それは彼らに取っては賞賛というより重荷であり、結果、カート・コバーンの自殺によって、すべてのロック・ファン、グランジファンの期待は、パール・ジャムの動向に注がれた。そんな中、発売されたのが前作であり、それまでの彼らの作品よりは反社会的な部分が強くなったことについて、ファン及び評論家は「カートの遺志を継ぐ者」と評価したが、彼らはそれを真っ向から否定した。だからこそ、前作より約2年経って発売されたこの作品は、グランジの今後、そしてロックのこれからを占うものとしても注目せざるを得なかったのであろう。

しかし、流石は、パール・ジャム。これは当時もそう思ったが、彼らの回答、というか新境地は、実はオーソドックスだけどヘヴィは、これぞ王道のロック音楽であった。ある意味で、このオトは、1970年代にツェッペリンが、1980年代にはAC/DCがロック音楽の存在感を示すべくために追い求めていた音なのである。そう、他のロックミュージシャンはなにをやってくれてもいいよ、だけど我々は違う。我々にはロックの王道を守る、その使命を負っているんだ。それが、ツェッペリンであり、AC/DCが出していた使命感に満ちた音であったのだ。パール・ジャムが出した回答、というよりも、もしかしたらここに辿り着いたかもしれないという「音」は、まさに王道ロックを守るための作品だったのである。しかし、これは、彼らにしかできない。まずはエディ・ヴェダーの存在だ。エディの声質はロックのヴォカーリストには少数派である低音域であるが故に、高音の歌い方には特徴が出易い。ボウイなんかもそうだ。そしてこの作品で提示したように、緩急の付け方、またその表現力が抜群である。そこに「重厚」なサウンドを取り込んでいる。これは、最早グランジでない、そしてこのヘヴィさは、実は新しいロック、21世紀へのロック音楽への提言なんだと筆者は強く感じた。実は、この次の作品も同じ傾向である。パール・ジャムは、カート・コバーン亡き後、丁寧にグランジを奉納し、そしてカートに変わって、新世紀のロック音楽の方向性を示唆したのである。

蛇足であるが、しかしながらこのCDジャケットのデザインは悪趣味で、グロテスクである。だがそれは、このジャケット・センスからは想像できない音が収録されていること、グランジの終焉をこういう形でも公表したかったのかもしれない。結果は決して悪くないセールスだったが、ここまで超ビッグヒットを出してきた彼らだけに、最低の売上となった。だが、パール・ジャムは、そんなことはそうでも良い、全く関係ない次元のミュージシャンになったのである・


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