あび卯月☆ぶろぐ

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差別語含む魚30種を改名へ

2007-01-06 18:22:32 | 言葉・国語
「バカジャコ」はダメ、差別語含む魚30種を改名へ

 日本魚類学会(松浦啓一会長)は、「バカジャコ」「イザリウオ」など差別的な言葉を含んだ魚の標準和名を改名する。
 見聞きした人を精神的に傷つけたり、不快感を与えたりすることがある上、博物館や水族館などが別名への言い換えをバラバラに行う例も多く、混乱を解消すべきだと判断した。今月中に正式決定する。動植物や昆虫などにも差別語を含んだ標準和名が多いだけに、他学会にも影響を与えそうだ。
 改名するのは、日本魚類学会標準和名検討委員会が差別的と判断した「メクラ」「オシ」「ミツクチ」など九つの語を含む魚で、日本産の魚類約3900種のうち30種が対象。同様の言葉が「種」より上位の「属」や「科」などの分類単位に使われている例もあるため、計49の標準和名を同時に改名する。

1月6日16時9分配信 読売新聞



新年はじまって嫌なニュースが続く。
北九州市と下関市を福岡県、山口県から分離独立させて関門特別市を作る計画があるという気の滅入るニュースの次はこれだった。
魚名を変える理由として

一、見聞きした人を精神的に傷つけたり、不快感を与えたりすることがある。
二、博物館や水族館などが別名への言い換えをバラバラに行う例も多く、混乱を解消すべき。

の二点が挙げられている。
私が特に批判したいのは一の理由だ。
早い話が、バカやメクラ、イザリ、オシ、ミツクチなどの言葉が差別語だから変えるということだ。
魚名の改名を提案した者もそれに賛同する人たちも良心の塊である。
差別をなくそうという良心である。
しかし、この種の人々が犯している誤りは差別語を無くせば差別が無くなると思っていることだ。
差別が無くなると信じていないにしても、差別語を滅ぼすことは正義だと信じているのだろう。
良心や正義は時として厄介なものである。

無論、私は所謂差別語と呼ばれる言葉をみだりに使うべきではないと思う。
それでは、差別語を駆逐すべきかというとそれは別問題だ。
差別語を無くすことが差別を無くすことに繋がらないこと、
差別の実態を教えなければ差別が無くなるわけではいことと同様である。
差別語を駆逐することは差別の実態から目を覆うことになると同時に、
過去の文学作品、映像作品にも弊害をもたらす。
『男はつらいよ』を観ていたら、寅次郎が発した唖(おし)という言葉がブチッと切られていた。
これでは寅次郎が何を言いたかったのかわからない。
差別語は使うべきでないが、過去の作品の中の差別語まで消すべきではない。
そんなことは当り前のことだと思うのだが、
過去の映画作品を観ていると音声が途切れること枚挙に暇がない。
藝術作品を後世の人間よって改竄されることほど不快な事はない。
私一人が不快になるだけならそれで済む話だが、
言葉狩りによって過去の作品が闇に葬られることもある。
『ちびくろサンボ』が良い例だ。
良心は藝術作品、文学作品に死を宣告させる。
これが私が言葉狩りに反対する最大の理由である。

魚の話に戻す。

躄(いざり)とは尻を地につけたまま進むことである。
イザリウオがどのような魚か名前を聞いただけで想像がつく。
イザリウオとは絶妙なネーミングなのだが、イザリは差別語だから名前を変えるという。
メクラウナギも同様でじじつ、メクラウナギに視力はほとんどない。
これも変えられる。
しかし、一体、どのように変えるのだろうか。
メクラウナギはモウモクウナギとでもするのだろうか。
それともメノフジユウナウナギか。
イザリウオに至っては予想がつかない。

バカジャコも変えられる。
とすれば、バカも差別語だったのか。
バカはもっとも普通に使われる罵倒語である。
いづれにしても、それほど人に不快感を与える言葉だとは思えない。
では、バカが駄目だとなると、『天才バカボン』も題名を変えなければならない。
『釣りバカ日誌』も同様だ。
きっと、「阿呆」も駄目だろうから芥川龍之介の『或る阿呆の一生』も変えた方が良い。
変えるとしても「バカ」や「アホウ」どう言い換えればよいのだろう。
「頭の不自由な方」とでもするか。
『天才頭の不自由な方ボン』『釣り頭の不自由な方日誌』『或る頭の不自由な方の一生』・・・
少々冗談が過ぎたが、一々人が不快に思う言葉を変えていたらキリがないということだ。
第一、人によって不快に思う言葉は異なる。
私など、不快に思う言葉を今思いつくだけでも、

看護師、エロかわいい、福北ゆたか線、セレブ、キモイ、ウザイ、自分探し、さいたま市、ジェンダーフリー、人権、十五年戦争、マニフェスト、イノベーション、オンブズマン、ヤフードーム・・・

など、数多く存在する。
「人権」を不快に思うなどとんでもない人間だと怪しむ人があるかもしれない。
私は人権を否定しないが人権という言葉は特定勢力によって濫用されて私にとってほとんど良いイメージは無い。
今回の言葉狩りに賛同する人たちもこの人権ということばが大好きな人たちだろう。
私が「人権」という言葉は不快だから無くしてしまえというと、この人たちはなんと答えるだろう。
無論、「人権」は必要な言葉だから無くした方が良いとは思わない。

果たして魚名を変えたがる良心的な人々は反対意見を聴く良心がありますかどうか。