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あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
お気軽にコメントなさってください☆

私が書いた詩

2006-10-17 00:51:11 | 雑記
小学三年の夏休みに詩を作成する宿題があった。

今の小学生もそうだと思うけれど、夏休みには「夏休みの友」と言う名の
国語算数理科社会の内容を網羅した問題集を渡される。
誰かが書いていたが、こんなものは「友」どころか「夏休みの敵」なのだが、
宿題だからしょうがない。日々コツコツとこなすしかないのだ。

冒頭で述べた詩を書く課題はこの「夏休みの友」に収録されていた。

当時、私は詩というものがよくわからなかった。
詩と作文はどう違うのか理解できなかったのだ。
課題の説明には「普段の生活で感じたことや不思議に思ったことを書いてみよう」というようなことが書かれていた。

私は「不思議に思ったことを書けば良いのだな」と承知した。
そして以下のような詩を作り上げた。
(原文がないので記憶を元に復元しました)

このまえ、家の二階にお茶を持っていこうとして
とりあえず階段の下にお茶を置いて僕はトイレに行きました。
トイレを終えてお茶を二階に上げようとしたらお茶を入れていたコップが見つかりません。
二階に行ってみるとコップがありました。
僕はお父さんかお母さんがこのコップを二階に上げたのだろうと思い、
「お茶上げてくれたと?」とききました。
ところが、二人とも「ちがう」と言いました。
妹にもきいてみましたが、「知らない」と言いました。
みんなウソをついているようには思えないし、ウソをつく必要もありません。
お茶を二階に上げたのはだれだったのだろう?



私が生まれて初めて書いた詩だ。
と言っても私は今を以って詩を書く趣味など無いので「初めて書いた」という表現は語弊があるかもしれない。
それにしてもこれは詩でもなんでもなく怪奇現象の体験報告に過ぎず、今、思い返してみても苦笑してしまう。

ところで、担任の先生からはこの詩について「怖かった」というお言葉を頂戴した。
何故か嬉しかった記憶がある。

「あび卯月☆ぶろぐ」一周年

2006-10-10 21:09:48 | 雑記
先程、気づいたのですが当ブログも昨日で一周年を迎えました。

当初は日々、感じたことをつれづれと書いてゆこうと考えていました。
ブログのタイトルが「あび卯月☆ぶろぐ」なのも
しょこたんこと中川翔子の「しょこたん☆ぶろぐ」にあやかったものです。

しょこたんのようにオタク趣味のことばかり書けばよかったのですが、
実際は政治主義に淫した内容になってしまいました。
そう考えると、私はオタクはオタクでも政治オタクなのかもしれません。
いえ、そうでなければ、こんな内容になっていないはずです。

しかし、私はどうも政治オタクとういう存在が好きになれないのです。
特に若者の政治オタクは左右を問わず知的に怠惰な手合が多いように感じます。
ひたすら他国を罵ったり、あるいは自国を罵ったり、
そういう下品な言論に終始し、自己だけが肥大している。
私も含めネットで偉そうに政治を語っている者は所詮、
暖衣飽食の日本人であり誰も本気になって政治を考えてなどいやしないのです。
いえ、本気に考えている気になっているだけとでも申しましょうか、
結局、政治趣味にすぎないということです。
(勿論、立派なブログも沢山あります。)

政治オタクを批判しつつ、そして、政治主義に堕した文章を綴ることの虚しさも実感しながら、
それでもなお、私は今後も政治に纏わる駄文を綴るでしょう。
実は私がもっとも知的にも道徳的にも怠惰な者なのかもしれません。

以前、このブログで紹介した福田恆存先生の文章をいま一度引きます。

批評の専門家になるということはこのうえない不幸だ。
健全な批評は副業でなければならない。(中略)
ゆめゆめ批評を本業とするなかれ。


今後もこの言葉を肝に銘じてブログを続けてゆきたいと思います。

飽きっぽい私が一年もの間、ブログを続けて来られたのも、ひとえに読者の皆様の御蔭です。
温かいコメント、また時には御批判も受けたからこそ続けられたのだと思います。
ありがとうございました。
今後とも御指導御鞭撻いただけたら幸いに存じます。

「あまカラ雑記」閉鎖を思ふ

2006-10-07 22:54:08 | 雑記
あまカラさんのブログサイト「あまカラ雑記」が閉鎖した。
親サイトであった「あまカラ備忘録」も同時に閉鎖されたようだ。

原因はあまカラさんの個人情報をネット上で晒した馬鹿が居たから。
こういうことで閉鎖になろうとは当のあまカラさん自身が最も予想していなかったのではなかろうか。
他人の個人情報をネットで晒すなど明らかに犯罪行為だ。
仮にあまカラさんが訴えたなら確実に勝訴すると思う。
それにしても何の目的であのようなことをしたのか理解に苦しむ。
「あまカラ雑記」を閉鎖に追い込むためにおこなったのだろうか。
いづれの理由があるにせよ卑劣極まりないやり方だ。
話が野暮になってくるので閉鎖の原因云々についてはこのへんで已めにしよう。

それにしても残念だ。
私は毎回、あまカラ雑記を楽しく拝見していた。
あまカラさんの意見が興味深いのはすべて私と同じくする意見を書いていたからではない。
むしろ、私の考えと異なる主張を提示されることが多々あった。
だからこそ、いつもなるほどと考えさせられたのだ。
読んで共感することもあり、また、なるほどこういう考え方もあるのか、と自己の意見と照らし合わせその問題について更に深く考えられることが出来た。
こういうブログは貴重だった。

大抵、ブログというものは私のブログも含めくだらない内容が多いし、
特に政治主義に堕したブログにはバカウヨクかバカサヨクのブログが多い。
私の目からはあまカラさんのブログはそのどちらにも与せず独自の視点で、
且つ、切れ味のある内容に映った。
いや、私だけでなく多くの人も同じ感想を抱いていただろう。
(ことわっておくが、あまカラさんのブログは決して政治主義に堕したブログではなかった)

さて、私は今回この記事を書こうか書くまいか迷った。
あまカラさんに対して失礼になりはしないかと。
あまカラさんは最後の記事に「本当に涙が出るような思いである」と書かれていた。
今、閉鎖について触れて欲しくないかもしれない。
(もし、お気持ちを害したようでしたらこの記事はすぐに削除いたします。)
今度はもうブログの再開はないだろう。
最後にお礼を申し上げたい。

あまカラさん本当にありがとうございました。

マンホールの下に閉じ込められたら・・・

2006-09-04 21:01:54 | 雑記
今回はまったくの雑記・・・というか「お願い」です。

以前、何かの本でこういう話を読みました。


ある作業員がマンホールの下に閉じ込められてしまった。
マンホールの蓋はかなり重くて下からの力では開けられない。
大声をだしても助けは来そうにない。
このままでは死んでしまうと思ったその人は
持っていた千円札(あるいは一万円札)を長細く折り曲げてマンホールの蓋の穴から地上に出してヒラヒラさせた。
道を歩いている人がヒラヒラしているお札に気付いてなんとか助けを呼んでもらえたという。


細かい部分で間違いがあるかもしれないけれど、大筋は間違っていないと思います。
この話は果たして実話だったのか都市伝説なのか・・・。
私が読んだ本では事実として書かれていた気がします。
しかし、その本のタイトル(もちろん著者も)が思い出せない。
インターネットで調べてみても一向にわからない。

ということで、お願いです。
どうか、御存知の方いらっしゃいましたら御教示ください。
お願いします。m(__)m

雷に御注意。

2006-08-12 23:54:29 | 雑記
昨日の夕方前、家に雷が落ちました。

そのせいで、パソコンのLAN部分が壊れ(モデムも壊れた)、
インターネットに接続できなくなりました。
パソコン内のデータが損なわれなかったのが不幸中の幸いでした。
ところで台所のIHもお釈迦になったのですがそれは私の管轄外。

とにかく、ネットに繋がらなくなったので焦ったのなんの。
結局、昨日と今日の二日がかりで修理しました。

まづ、翌日の今日、NTTさんに来てもらいモデムを交換。
それでも復旧出来なかったのでLAN部分も壊れていることが判明。
私のPCはマザーボードにLANが内蔵されているので、その部分の修理はほぼ不可といことで、
新しくLANボードを買って来て取り附けました。
インターネットの設定も少しいじらなければならなくて、兎に角苦労いたしました。
近所の知り合いの電気屋さんにも手伝っていただいて夕方前になんとか復旧。
いやぁ、ホッと肩をなでおろしました。
他にもアドバイスをくれたロンドこと王子さん、ありがとうございました。

今回は至極プライベートな話題で失礼。
しかし、丸一日気が気ではありませんでした。
修理に時間を費やして精神も体もヘトヘトになりました。
パソコンについて知識が明るくないこともあって本当にくたびれました。
同時に自分が普段どれほどネットに依存しているかを改めて実感いたしました。
情報を得るにも発信するにも就職活動をするにも本を買うにもネットは欠かせません。はい。
ネットに繋がらなければパソコンはデータを入れておく箱に等しいですものね。

ということで、みなさんも雷にはくれぐれも御注意ください。
雷が鳴ったらインターネットの回線とパソコンのコンセントを抜くことをおすすめいたします。

靖國神社に参詣して来ました

2006-08-09 22:27:49 | 雑記
靖國神社に参詣してまいりました。
前にも書いたように東京に行った理由は別のところにあって、
靖國神社にはその帰りがけに寄ってきたという具合。
でも、私の中では九段に行くことの方がメインのような心持ちでした。

さて、七日はとても暑い日で東京メトロ半蔵門線・九段下駅を降りて、
九段坂を歩いたのですがもう汗びっしょり。
勿論、初めて歩く道ですので、「この道でいいのかな」と思いつつ、
坂を登っていると神社が見えてきました。

まづ初めに思ったことは鳥居が大きいということ。
その鳥居をくぐると大村益次郎の像が出迎えてくれました。
手を洗い拝殿へ。

平日ながら意外に人が多くて驚きました。
西洋人も多かったですね。
西洋人はどのような思いでこの神社にやってきたのでしょうか。
言葉が通じるのならいろいろと話をしてみたいと思いました。

拝殿の前に立つと右側に昭和天皇御製の和歌が目に入りました。
「国のため 命をささげし人々の ことを思へば 胸せまりくる」
拝殿の前に立つ人が私一人だけになったところでお参り。
英霊の方々に感謝と御冥福をお祈りいたしました。

参拝を終えた後、遊就館へ。
時間が無かったので本館には入らずに遊就館特別展「故郷の護國神社」だけ見ることに。

それにしても、靖國神社は緑に囲まれた美しいところでありました。
英霊の方々も安らかにお眠りできるでしょう。
やはり、この場所は政治問題化してはならないと感じました。

家に帰るとTVタックルで靖國問題について議論が交わされていてなんだか苦笑。
テレビに限らずネット上のコミニュティでもこの議論が喧しいですが、
靖國に行ってきた私としてはどうもその議論に参加する気力が湧きません。
結局、意見が違うということは多くの場合その人の根幹にある心情に関わることですから、
殆ど話し合いで解決出来る類の問題ではありません。
いわんや、国家同士をや。
こちらの論が正論と思って議論しても向こうも持論が正論と思って議論しているわけですから、
議論が平行線をたどるのが道理です。
『バカの壁』にもありましたが話せばわかるなんて嘘なんですね。

かといって、話し合いをしなくてよいというわけではなくて、
我々はそれが不毛だとわかっていても話し合いをやめてはならないし、
お互いがわかり合えないからこそ話し合いをやめてはならないのです。

しかし、国内に於いては
日本人の七割が東京裁判を知らないという現状で議論をしたって無駄です。
まずは歴史を知るところから始めなくてはならない。
と言っても、目に見えるものしか信じない日本人は
外圧なしには動かないし、実害を蒙るまで目が覚めない。
先日のテポドン騒動にしても実害がなかったからもうみんな忘れてる。
今じゃ、ボクシングの亀田某というの態度が悪いとかそういうことに騒いでいる。
なんとも平和民族ではないですか。
別の言い方をすると極楽とんぼと云うのですが。

願わくば支那朝鮮にはもっともっと日本に対して攻撃をして、実害を蒙らせていただきたい。
そうすれば、いくら不感症の日本人と言えども少しは目を覚ますでしょうし、
靖國神社の問題に関してももっと本気になって議論するでしょう。

あび卯月事務所~私からみた若者~

2006-08-03 23:39:44 | 雑記
若者が嫌いである。
私自身、二十一歳だから若者なのだろうが、そんなことは関係無い。
大学を歩いていても街を歩いていても電車に乗っても
若者に嫌悪感を覚える事はあっても感心することは無い。
「下品で無知で自己中心的で幼稚」
これが私の若者観である。
(ここで云う若者は十代後半から二十代前半を指す)

こんなことを書いて激怒する若者もあるだろう。
たとえば後藤和智さん。
「新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~」というブログをやっている方。
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/

後藤さんはとにかく「大人」が若者に悪口を言うのが許せないらしい。
若者に対するあらゆる批判に対して悉く反論していらっしゃる。
反論というよりほとんど悪口になっているのも多いですけど。
文章がときおり感情的になっているところからも余程「若者批判」に御立腹の様子。
また、ニート批判に対しても、
『「ニート」って言うな!』 (光文社新書)という本を書いて反論されている。

確かに、的外れな若者批判が多いのも事実で、
例えば「ゲーム脳」だとかああいう類の論はエセ科学を持ち出している点でも悪質なので叩かれてしかるべきだろう。

が、ほとんどの場合、若者は批判されてしかるべきなのである。
そして大人は若者を叩くのが仕事なのであり、
若者に媚びを売る大人ほど気持ち悪いものはない。

後藤さんは電車内の携帯電話の使用について、

その程度のことで「道徳の崩壊」みたいなことを嘆いてしまうのもどうかと思うけれども。

と書いているが、私は「道徳の崩壊」だと思うし、大いに嘆いている。
「どうかと思う」などと云わず、こういう批判は甘んじて受け入れるべきだ。
なにより最近の若者は恥知らずになっている。
携帯電話よりももっと不快なのは電車内で化粧をする若者だ。
先日も隣に坐った女子大生風の若者がなんのためらいもなく化粧を始めた。
二人掛けの席なので私の顔のすぐ近くでカチャカチャやられたわけだ。
これが恥知らずではなくてなんだろう。
こういう若者が居なくならない限り私は若者を“感情的に”罵倒する。

もう一つ書かせて欲しい。
これは若者に限らないけども、歩き煙草をやる手合が多い。
歩き煙草にかぎらず、総じて若者の煙草のマナーは惨憺たる有り様だ。
これはマナーをきちんと守っている愛煙家までも肩身を狭くするという点で、より罪が重い。
いっそのこと、歩き煙草をしたら飲酒運転と同じく罰金を五十万とるとかすればよいのだ。

後藤さんは以上の文章を御覧になると、烈火の如く怒ると思う。
それも同世代の若者が書いているのだから(笑)
「最近の若者は」などと書いたから
あび卯月は実は五十代のオヤジなのだ、と云われるかもしれないし、
オヤジの常套句を遣ったりして彼の精神は既に老化している、とでも書かれるかもしれない。

そりゃ、若者が全員嫌いというわけではないし、
みんながみんな私が述べた「若者」の定義に当てはまるわけがない。
そんなことは当り前だ。
私が罵倒するのは所謂「若者」である。
そしてそういう人が増えているから危惧しているのだ。

そういうわけで、「若者」である私は今後も若者を罵倒してゆくし、
そんなことを云うので私も若者から罵倒されてゆくだろう。

「あまカラ日記」復活!

2006-07-26 03:15:10 | 雑記
今年の四月に閉鎖した「あまカラ日記」がこの度「あまカラ雑記」と装いを改め復活しました。

先日、福田逸先生からコメントをいただき喜んでいたところ、
今度はあまカラさんから「気まぐれでまた再開しました。」という書き込みをいただいて、
連続して歓喜した次第でありました。

あまカラさんについては以前にも少し紹介いたしましたが、
福田恆存さんをはじめ、高島俊男さんや呉智英さんの愛読者であらせられます。
私もこの御三方の愛読者であり、それがきっかっけでブログにお邪魔するようになり、
いつも大変楽しく拝見させていただいておりました。

もちろんこの御三方の本に限ったわけではなく
数多くの本を読まれていて、その読書量は半端ではないとお見受けいたします。

何よりあまカラさんの文章は脳味噌を刺戟させられる。
本や落語の感想以外にも世相や社会問題を痛快な切れ味の文章で評論されて、読んでいて本当に楽しい。
昨今、猫も杓子もブログブログということで、毒にも薬にもならないブログが氾濫してしまい、
玉石混交というより、玉石の石の方ばかり増えている有り様です。
(私のブログもいうまでもなく「石」なのですが)
が、その中にあって、あまカラさんのブログはまさに「玉」。

当ブログのブックマークにリンクを張らせていただいたので、
みなさんも是非、一度、御覧になってください。


私も「あまカラ雑記」をお手本に今後とも精進してゆきたいと存じます。

稲作と湿気と日本人

2006-06-08 23:23:55 | 雑記
田植えの時期になりました。
電車の窓から水の張った田んぼの風景が見えたときなど、
なにやら心が洗われるような気がいたします。

かつて、柳田國男が日本人にとっての幸福は
「米が沢山獲れる事」だと述べました。
これがどういうことかは後で書くとして、
日本人の精神形成に稲作が担った役割は小さくありません。
日本人が「和を以って尊しとなす」のは
稲作という作業が共同作業無しには成立しないからであり、
日本人が土地に異常なこだわりを示すのも
土地との密な関係が要求される水田稲作を営んできたからであります。

六月に入って湿気も高くなってまいりましたが、
この湿気こそ日本人の精神形成の根幹をなしていると思います。
かつて樋口清之さんは「日本文化はカビの文化だ」と述べました。
私もこの意見に深く共感するものです。
まさに日本文化は良きにつけ悪きにつけジメジメしたカビの文化です。
例えば日本人の「ケガレ思想」にしてもこの湿気と関わりがあります。
日本人は死体を嫌う。死はケガレなのであります。
というのも、湿気が多い日本においては死体はすぐに腐敗し、疫病をはじめ様々な病気の原体となります。
そこから、血や死を嫌う「ケガレ思想」が形成されたのです。

教育実習で教材研究をした時も感じたのですが、
地理を学習してことに思うことは
気候こそがその土地に住む人々の精神・思想を造り出すのだということです。
日本の場合、この湿気や四季や雨や台風の多さが日本人の精神を形成しました。

そして、話は元に戻りますが、
今も昔も眼には見えぬ哲学や思想を持たない日本人にとって最大の幸福は
やはり「米が沢山獲れる事」なのであります。

教育実習終了

2006-06-04 22:40:46 | 雑記
暫らく投稿を休んでおりました。

というのも、五月二十二日から今月の二日まで教育実習に行っておりまして、
一昨日金曜を以って教育実習が終了いたしました。

教材研究や授業の大変さ、教師の仕事の多忙さ
・・・など、多くのことを学びました。
特に授業は何度やっても思うようにいかぬものです。
人にものを伝えることの難しさも改めて実感しました。

予想通りだったことは本当に疲れると言う事です。
授業が無くて空いている時間も他の教科の授業見学や日誌をつけなければならず、
特にこの日誌記入に多くの時間を費やしました。
寝る時間もだいたい4時間前後で、普段、自堕落な生活をしている自分の体がよくもったなと感心しました(笑)
逆に予想外だった事は私の指導担当教諭がやさしい方だった事で、
他の実習生は厳しい教諭だったり冷たい教諭だったりと何かと苦労が多かったようです。
その点、私は幸福でした。

そして、なにより嬉しかったことは生徒たちが「先生!」と言って話し掛けてくれたりしたことです。
授業でも生徒が私の話に反応してくれて会話のやり取りがあった時など、この上なく嬉しい瞬間でした。
結局、教師としての一番の喜びは生徒との触れ合いであると感じました。

教育実習は終りましたがこの事は単なる通過点に過ぎません。
この経験を踏まえて、より一層自分自身を磨けたら、と思います。
実習を支えてくださった諸先生方、生徒のみなさん、他の実習生、家族、ここに居られるみなさんに感謝しつつ実習終了の言葉に代えさせていただきたいと思います。

本当にありがとうございました。

プレステ3の価格に見るソニーの姿勢

2006-05-17 02:48:26 | 雑記
今秋に発売されるプレステ3の値段を昨日の「伊集院光深夜の馬鹿力」で知った。
なんと、税込みで62790円。
伊集院さんもこの価格に対してギャグを交えつつも批判的にトークを展開していた。

私は今、テレビゲームというものを殆どしない。
小学生、中学生の頃は随分やったくちだが、高校くらいからほとんどやらなくなってしまった。
というのも、最近のゲームにはついていけなくなったからだ。
私はリアルな映像や3Dが嫌いなのである。
ゲームはシンプルなほど良い。
例えば最近、妹にプレステ2の「サイレントヒル」なるゲームを頻りに薦められて、数分プレイしてみたが一向に楽しくなかった。
だから、私にとってのテレビゲーム機はスーパーファミコンであり、
テレビゲーム会社といえば任天堂である。
一応、ニンテンドウ64とプレステ、プレステ2を持っては居るが、ソフトはそれぞれ数本づつしか持っていない。

さて、こんな私がゲーム機についてあれこれ言うのはおこがましいかもしれないが、
プレステ3に関してはどうしても一言云いたくなった。
早い話が「高い」のである。
この値段では金持ちの子供か余程ゲーム好きな者しか買わないだろう。

SCE社長兼CEOの久夛良木健氏の発言を紹介した記事を引こう。

また、気になる価格について久夛良木氏は、「安すぎたかも」とそれぞれ内包する技術や原価を考慮した発言をする。久夛良木氏はプレイステーション 2(PS2)の発売時を振り返り、「これはPS3の価格です。高いとか安いとか、“ゲーム機として”というくくりでは考えてほしくないんです。PS3というものは他にはないわけですから。例えば、高級なレストランで食事をした時の代金と、社員食堂での食事の代金を比べるのはナンセンスですよね? これは極端な例ですが、まさにそういうことなのです。そのゲーム機で何ができるか、というのが問題なのです。すばらしい体験ができるのなら、価格は問題じゃないと考えています。(以下略)」

http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0605/09/news046.html


なるほど、プレステ3はゲーム機というくくりで考えてはならぬモノらしい。
その割にはハードディスクが20ギガというのはどういう料簡か知らぬが、
それにしてもこのソニーの態度に腹が立つ。
特に「安すぎたかも」などは金持ちが上からものを言っているようにしか聴こえない。
「“ゲーム機として”というくくりでは考えてほしくないんです。」
という発言も夜郎自大に他ならない。
漫画家や声優が自らを「アーティストです」と称するようなものだ。
プレステはプレステであるかぎりゲーム機である。

第一、テレビゲームは本来、子供のものではなかったのか。
翻って上に見る社長の発言は子供の視点をまったく無視したものだ。
「すばらしい体験ができるのなら、価格は問題じゃない」
と言っているが子供にとっての一番の壁は価格なのであって、
「問題じゃない」ことがあろうはずはない。
それに、価格によらずに素晴らしい体験が出来るゲーム機こそ本当に良いゲーム機ではないのか。
子供は高級レストランで食事はしないし、
大枚をはたいて娯楽を得ることに喜びを見いだしはしない。
仮にそういう子供がいたとしてもそれは頗る生意気で嫌なガキである。

こういうことを書くと昨今のゲーマー達に怒られようか。
特にソニーの悪口を言うと過剰に反応する人が少なくない。

しかし、最近のゲームの価値はよりリアルでより美しいグラフィックなど、
いかに「高性能」であるかが価値判断の基準になっている。
ゆえにソニーに限らずゲーム会社はゲーム機のスペックばかりに拘り、より多くの機能を附けようとする。
まるで冷戦時の米ソの核開発競争のように相手よりいかに多くの機能を持つかということばかりに気を取られている。
そしてとうとうソニーは子供の視点をも失った。
私はX-BOXが日本で成功しなかったのは米国に子供の玩具を作ってきた歴史がないからだと思っている。
日本は江戸時代から子供向け玩具を作ってきた歴史がある。
子供の視点を無視するソニーはX-BOXの二の舞になるだろう。

もともとソニーという会社は嫌いだったが、この一件でますます嫌いになった次第。
あび卯月は任天堂を応援しています。

水の清さと田の美しさと

2006-05-03 03:02:46 | 雑記
徳富蘆花の『思出の記』に次のようなくだりがある。

今も忘れ難く思ふのは、水の清いのと、稲の美しさである。
(中略)
実に其稲穂の艶々と青んで、暢々(のびのび)と立揃つた所は都人士にも見せもしたい。(略)
蛙の声を踏み分けて一村総出の田植え時、
早乙女の白手拭がひらりひらりと風に靡いて、畦から畦に田植え歌の流るゝ頃の賑合を。
それから炎天の田草取は傍で見ても辛いが、併し夕立!
暑い、堪らぬと云ふ下から殷々(ごろごろ)鳴出す。
(中略)
冷たい風が颯と吹いて来ると、頓(やが)て大粒の雨がぽつり。
耳を掩へた太郎作が未だ半丁と逃げ延びぬ中に鳴る、光る、降る、吹く、―
(中略)
あゝ涼しい、御覧なさい、先程までやゝ痿(しな)んで見えた稲が唯つた一瞬の間に眼も醒むる程青々となつて、
一二寸も伸びや様に、何処を見てもさわさわさわさゞめいては露を揺りこぼして居ると、濁り泡だつ田の水はどくどく溢れて、小鮒や鰌(どじょう)が矢鱈に畦道にはねて居る。

(難読漢字には括弧内に読み仮名を附け加えた)


当時の熊本の自然を描いたもので、水と田の美しさが表現されている。
ここのでの季節は夏である。

田舎育ちの私は毎日田んぼをはじめとする自然を見ながら育った。
また家の傍には竹林があり、夏の夕立の時などには
雨が田んぼと竹の笹をあらう情景を幾たびも見た。
幼い頃から夏の雨が好きで、炎天下に夕立が降ろうものなら
どんな時であろうと、ぼーっと雨音を聴きつつ濡れる緑をいつまでも見つめていたものだ。
いまだに夏場に夕立が降りだすとやはりしばらく雨を眺めてしまう。
そんなわけで私が自然でもっとも美しいと思うのは
夏の夕立の情景であり、蘆花の文章にこの上ない共感を覚える。
しかし、こういう感情を抱いているのは私だけではない筈だ。

例えば唱歌「ふるさと」が多くの日本人に愛される理由は
ふるさとに対する郷愁とならびに郷土の自然を歌っていることにあると思う。
私なんぞは三番の
「こころざしをはたして いつの日にか歸らん
 山はあをき故 水は清き故」

の箇所を聴くたび歌うたびに涙が出そうになる。

早い話が日本人にとって田の美しさや水の美しさは切っても切れないものであり、
日本人の美意識の根幹をなすものではないかと思う。
・・・いや、別に今回は日本人論をしたいわけではない。
私の個人的な愚痴というか悲哀を述べたいまでだ。

というのも、
数年前に私の家のすぐ前にあった田んぼが住宅地開発の為に埋め立てられた。
昔あった青々とした自然はもはやそこにはなく、
初夏から梅雨、夏にかけて聴こえてきた蛙の鳴き声もいまでは殆ど耳にすることが出来ない。
今では眼前に茶色の土が広がるのみである。
住宅地を作るためと云っていたのにいつまで経ってもそれが出来る気配も無い。
一体何の為に田んぼの青を茶色の土で塗りたくったのか。

再びあの蛙の合唱や夕立に濡れる稲を見られないと思うと悲しくてしかたがない。
数年前からずっと陰鬱たる思いがしている。
私は終生、この田んぼを破壊した者を恨みつづけるであろう。

いや、これも夕立の如く水にながして生きてゆくべきだろうか。

「あまカラ日記」閉鎖

2006-04-25 23:46:29 | 雑記
私がブログの中でもっとも愛読していた「あまカラ日記」が閉鎖するそうです。

きっかけの一つに次のようなことを挙げられている。

テレビを見ても、本を読んでも、落語を聴いても、頭の中で感想文を書き始めているのである。これはかなり不快だった。

この気持ち、ブログをやっている者ならば
少なからずわかるのではないだろうか。
現に私も日常生活においてふと気附くとブログのネタを探していたり
テレビを観たり本を読んだりするたびに感想を考えている。
私はこれを「不快」と感じたことはないが、
そういわれてみると、なるほど自らの生活がブログに制約されているようで不快である。
とはいえ、私はまだブログを運営する楽しさの方が勝っているので
当分はブログを続けていくと思う。

ところで、「「アニメおたく批判記事」を批判されて閉鎖するのか」
などという書き込みがあったが、断じて違う。
そのようなことは記事を読めばわかることである。
まったく反論する気にもなれない。
真っ当な批判はされてしかるべきだが、かかる中傷の類に附ける薬は無い。
アニメおたくはかくも不寛容であったか。
おたくは批判されても、むしろ自嘲するくらいの器を持って欲しいものである。


さて、話を変えましょう。

私が「あまカラ日記」を知ったきっかけは
福田恆存さんについて何気なく検索していたら偶然たどり着いたという具合。
記事の内容が興味深く、且つ面白く
また、高島俊男さんや呉智英さんの記事もあり愛読するようになりました。

流石は福田恆存さんの読者さんとあって文章に力のある方で
保守的ながらも今流行りの“俄か保守”などとは違い、
独自の視点で様々なことを論じられて
私もこのようなブログを目指したいものだ、と御尊敬しておりました。
(まったく私などは福田恆存読者の風上にもおけない。)

今回、閉鎖ということで非常に残念ですが、
ご本人は「休眠後また、書きたくなったら始めるかもしれない。」
と仰っているのでそれにひそかに期待したいところ。

最後に引用されていた福田恆存さんの文章が印象的でした。

批評の専門家になるということはこのうえない不幸だ。健全な批評は副業でなければならない。(中略)ゆめゆめ批評を本業とするなかれ。

まったくその通り。
今後、ブログをやってゆくにあたって、この言葉を肝に銘じたいと思う。

オタクと思想

2006-04-19 02:03:31 | 雑記
あまカラ日記に「アニメおたくへの迫害は当然」と題する記事が掲載されました。
http://amakara.tea-nifty.com/amakara/2006/04/post_beb3.html
記事のタイトルが示すとおり、アニメおたくへの批判記事で
オタクの小生としては少々耳が痛いのですが、

繰り返し言うが、美少女アニメとかメイド喫茶とか、
最近ああいうものが市民権を得てきたような気がするが、決して許してはならない。
ああいうのをおおっぴらに見たり使ったりする連中は無条件で軽蔑すべきなのである。恥部は隠せ。


という主張は大いに賛成。
メイド喫茶などはこっそりとあるからよいのであって、
市民権を得る類のものではないと思います。
オタクであることをおおっぴらにするのは恥と知るべし。
そして、恥部は隠すものなのであります。
ただ、

メイド喫茶に通ったり、美少女アニメを見たりしながら、
憲法9条の改正を訴えたり、朝日新聞の偏向を非難したり、日本語の乱れを指摘したりしているわけだ。
こういう連中が「伝統」(!)を訴えたりしているのある。


という箇所はちょっと納得し難い。
アニメを観る者が伝統を訴えてならぬは道理がわかりません。
日本が漫画大国になったのは日本の伝統文化が深く関わっていると思うのですが。

私は普段あまカラ日記を愛読しているもので、
あまカラさんに対して批判じみたこと言いたくなかったのですが、
ここは一つ私情を抜きに言いたいことを言いました。
えへ。あまカラさん怒らないでね☆
(ここが私の道徳的に怠惰なところ)

実はこれからが本題。

平生、思っていることに
「政治主義に淫したブログを運営してい若い人はオタクが多い」
ということがありました。
オタクというのはもちろん思想オタクという意味ではなく、
アニメだの声優だのが好きなオタクです。

で、そういうオタクは右派が多いとばかり思っていたのですが、
あまカラさんが紹介しているこの下記のブログを見ると、

新・後藤和智事務所~若者報道からみた日本~
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/

どうやら左派のオタクも居るようですね。
まぁ、当り前と言えば当り前ですが、この後藤氏、声優オタクかぁ・・・。
同属嫌悪ではないですが、やはりちょっと嫌なもんですね。
同級生なだけに、一層嫌悪感を抱きます。
「私はこういう連中とは口を利くのもいやである。」とまでは申しませんが、
やはり右派のオタクも頑張らなければと思う次第。

え?私ですか。
私は思想態度が保守的であるというだけで、
別段、思想というものを持っているわけではありません。
ただ、己の考えの赴くままに駄文を列ねているに過ぎず、
自分では右派でも左派でもないと勝手に思っております。
まぁ、サヨク嫌いだから多分右派なんだろうけど。。

にしても、最近では上の左がかったブログに対して
以前みたいに「一筆申し上げ参らせ候」という気が起きません。
いかんなぁ。。

春のきざし~櫻について~

2006-02-17 01:21:02 | 雑記
二月も中旬を過ぎて次第に温かくなつて參りました。
私は寒いのが苦手なので冬も大嫌ひです。
ですから、春が近づいてくると大變嬉しい。

ブログのテンプレも春らしいものに代へました。
なんだかんだ云つて花の中では櫻が一番好きです。

日本語學者であつた故・金田一春彦さんは
著書『ホンモノの日本語を話していますか?』の中で

「サクラの花ほど、昔から日本人に愛された花はないだろう。普段はそこにあることも気がつかないのに、
季節がくると、まるで明かりがついたかのように、ぱっと華やかに咲き誇る。
そして一週間もたつと、惜しげもなく花びらを散らせて、またもとのひっそりとしたたたずまいに戻る。
この花の潔さが日本人の国民性とぴったりなことが、これほどまでに愛された理由なのだろう」


と述べられてゐます。
やはり櫻は日本人が好む美を體現してゐるのでせうね。
わたしもそのやうな理由も含めて櫻が好きであります。

受驗のシーズン眞つ盛りですが、
受驗生のみなさんにとつても美しい櫻が咲くことを願つてをります。