すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

死について

2021-03-09 10:55:15 | いのち

 数日間ブログを書かなかった。以下のことを書くのをためらっていたからだ。だが、そのことが引っ掛かったままなのは気持ちがすっきりしないから、それに、そういうことを書かないブログはぼくにとって価値が薄いから、書いてしまうことにしよう。

 ここのところずっと、死のことを考えている。とは言っても、「人間にとって死とは何か?」とかについて深く哲学的に考察している、というようなことではない(ぼくにそんな能力は無い)。ただ単に、死ぬということが頭から離れない、意識のどこかに、家事とかをしていても、ごちゃごちゃ他のことを考えていても、意識のどこかにほとんどいつもそのことが引っ掛かっている、ということだ。
 死ぬのが恐ろしい、という話では全くない。むしろ、その方が好ましく思えるのだ。
 死んだ後の別の世界、別の生のほうが良く思える、ということでも全くない。ぼくは、あの世とか転生とか魂の存在とか神の存在とかを信じてはいない。全否定するものではないが、仮説は全否定することも全肯定することもできないからに過ぎない。それらは仮説であって、信じる気にはなれない。
 だからこの今の生はぼくにとって一回限りの、終われば無でしかないものだと承知している。だから、死の方が好ましく思える、というのはすなわち、今の生が終わって無になる方が、ぼくという存在が消滅する方が好ましく思える、ということだ。
 「それならなぜ、おまえはまだ生きているのか?」と問われるかもしれない。現にお前は、突然死の可能性を低くするための手術を受けようとしているところではないか?
 それは必ずしも、生きることへの執着が強い、ということではない。「死の方が好ましく思える」というのは、決定的にそっちを選択する(ことにした)、ということではない。逡巡の中にいる、ということだ。
 (ついでに書くが、ぼくは「生き続けてゆくことが絶対的に善である」ということを前提とした話にはついて行けない。だから、そういう立場からの批判には聞く耳を持たない。)
 それでは何がぼくを逡巡させているか、仏教的に言えばぼくの「執着」のもとは何か、といえば、読書と山登りだろう。
 ぼくはもっと本を読みたい。かつて読んだ本を読み直したいし、まだ読んでない本も読みたい。読んで知識を得たい、とか、心を豊かにしたい、とかではなく、読むこと自体が楽しいのだ。
 ぼくは山に行きたい。去年初め頃からここまで、コロナ禍であまり行けなかったから、おまけに今ちょっと膝を痛めているから、その気持ちは膨らむ一方だ。この世界の中で、北と南と中央のアルプス、朝日と飯豊の連峰、ほど美しい場所は他に何処にもない、と思う。生きている間にそこにできるだけたくさん行きたい。
 読書と山登り、そのほかに執着はない。だが、読書と山登りとのために、例えばもう10年生き続ける、このような現代社会の中で、このように生き続けてゆく、ことに本当に価値があるかどうか?
 わからないのはそのことだ。

(付記:若い頃食わず嫌いしていたモンテーニュの「エセー(随想録)」を読み始めた。この歳になってから読むと、たいへん面白い。ただ、岩波文庫で約400ページが6冊もあるので、ほかに読みたいものも多いので、たぶん終わりまではいかないだろう。
 もし、「死ぬのが恐ろしい」という人がいたら、第一巻の第20章を読むといい。恐ろしいと考えるたびに繰り返し読むと良い。何度か丁寧に読めば、恐ろしくなくなる。)

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