すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

お彼岸に

2018-03-21 20:00:45 | いのち
 今は亡き、親しかった人の墓に向かって手を合わせる。「待っていてね。もう間もなく僕も行くからね」と心の中で呼びかける。あるいは、仏壇の遺影に向かって手を合わせる。今日はお彼岸だから、母におはぎとイチゴを上げる。「お母さん、見守っていてね」と呼びかける…
 ぼくは霊魂の存在に懐疑的であるのに、呼びかけるのを不自然に感じないどころか、相手が聞いていてくれるような気さえするのは、なぜだろう。
 ぼくは母の霊魂に呼びかけているのではないからだ。ぼくの心の中の母の思い出に呼びかけているのだからだ。むこう側の世界というものがあって、今はそこにいる、親しかった人の霊魂に「僕も間もなく行くからね」と言っているのではない。ぼくの心の中のその人に向かって言うのだ。
 心の中に今でも相手がいるのは良いことだ。その相手と今でも話ができるように思うのは良いことだ。残念ながら、ぼくは母の遺影の隣にある父の遺影に向かって呼びかけている気が少しもしない。
 ところで、手を合わせて話しかけるというのは、相手との心のレベルでのコミュニケーションというだけではなく、自分もやがて死ぬ、その準備でもある。
 死者に手を合わせる、死者と話す、ことによって心が休まる、ぼくたちはそれを繰り返すことを通して、じつは自分自身の死をも少しずつ受け入れることができるようになる。
 子供の頃、そのことを考えると大声で泣き叫ぶほど恐ろしかった、青年時代、夜中に布団から跳ね起きて、いてもたってもいられなくなるほど恐ろしかった死が、今では別に怖くもない、受け入れることができるような気がするのは、そういうコミュニケーションの繰り返しを通じて、死というものに親和、でないまでも、慣れていくからだ。
 そしてそれは、自分が死ぬまでのこれからの人生を心安らかに過ごすための大事な条件でもある。歳をとってきて、いろいろ不調も出てきて、いずれ死ぬということが現実感を増してくる、その時期に死ぬのが怖くて怖くて仕方がなかったら、落ち着いて日々を生きてなんかいられないからね。その時期までに死というものになじんでおくことは絶対に必要だ。
 世界のどんな民族、どんな時代でも、お墓や遺影に手を合わせる、死んだ人を悼む、あるいはその人と話をする、というのは、人類に共通の自然な気持ちであるとともに、人類の叡智でもあるのだ。
 「もう間もなく」というのは、「人間の生きている時間は短い、そのぼくの短い時間の残りを終わりまで生きて」という意味でもある。たとえ死んでから会えなくても、生きている間はその人と話ができる。そのことを心の慰めとも喜びともすることができる。
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