すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

仮説について

2018-03-24 21:16:41 | いのち
 「死んだ人と話す」、と書いた。でも、どこかこの世界とは別に死んだ人たちが住む世界があって、そこにいるその人と話をするわけではない。
 「僕は霊魂に呼び掛けているのではない」と書いた。霊魂というものは、あるのかないのかは確かめ難い。少なくとも、人類の現在の発展段階では、確かめられない。
 どのようなことでもすべて、実験・観察によって確かめられるまでは、仮説として扱われるべきだ。
 ぼくは、「霊魂はない」とは言っていない。あるかもしれないし、ないかもしれない。「あるとすれば…」という話はできる。でも、確かめようがないことを、あるという前提のもとに議論することはできない。
 科学者はすでに、「実験・観察によって確かめられるまでは、仮説として扱われる」ということを共通認識としている。相対性理論でさえ、その理論の帰結する、重力によって光の進路は曲げられる、とか、ブラックホールが存在する、とかの予言が実際に確かめられるまでは、仮説であった。だから相対性理論はノーベル賞を取っていない。
 それどころか科学者はすでに、不確定性原理によって、科学の力では確かめることができない事柄のあることを認めている。
 経済学者や社会学者は、自分の理論が正しいと信じているだろうが、真理であるとは主張しない。実際に現実社会に適用してみて理論どおりに経済や社会が動くかどうかを確かめる。それに、たとえ現象が理論どおりに進んでも、世の中が変われば、時がたてば別の理論が必要になるかもしれない、と知っている。
 ただ宗教のみが、実験・観察で立証されるのを待つことなく、自分の考えが心理であると主張する。傲慢である。(以前に、トランスパーソナル心理学というものの入門書を読んだことがある。「人の魂は死後、四十九日経つと、生まれ変わる」と書いてあった。「宗教家と一部の心理学者のみが」と言い直しても良いかもしれない。)
 これも以前に、二人一組で宗教の勧誘に個別訪問している人と話してみたことがある。彼らは神様がいるということ、霊魂があるということを絶対的真理だと思っているから、そこを前提にしか話ができない。「確かめようのないことは、仮説である」という前提を、絶対に受け入れようとはしない。
 「あなたの言うことは正しいかもしれないし、そうでないかもしれない。確かめようがない」ということを了解し合えたら、もう少し意見交換をしても良いのに。
 科学技術は進んでも人間の叡智は本当にゆっくりとしか進化しない。確かめる方法はまだ見つからない。宗教の側からは、見つけようとさえしていない。
 宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の初期形の中で、「もしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とをわけてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も科学と同じやうになる」と書いた。
 その通りだと思いたいが、どうも人類は霊魂や神が存在するかどうか知る方法を見つける前に、滅んでしまいそうな気がする。
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