昨夜、オペラシティーに東京交響楽団の演奏会を聴きに行ってきた。ジョナサン・ノット指揮。前半がフランスの現代作曲家デュティユーの交響曲第一番。後半がモーツアルトのレクイエム。
デュティユーのはいかにも現代フランスが好きそうな華やかな音の爆発で、楽器編成も重厚で、音の饗宴を堪能した。歓喜がきこえた。古典的な交響曲とは全く違うのだが、交響曲の定義って何なんだろう? 一緒に行った、クラッシックに造詣の深いK君は「作曲者が交響曲と言えば交響曲なのさ」と言っていたが。音楽にド素人のぼくはちょっとオリヴィエ・メシアンの「トランガリーラ交響曲」にサウンドが似ているな、と思ったが、K君は「全く違う」そうだ。
ド素人のぼくはじつはモーツアルトにあまり関心がない。美しいだけの気がする。ベートーヴェンのような苦悩や暗さがないと心惹かれない。モーツアルトの時代は、音楽が貴族社会の楽しみであって、ベートーヴェン以降でないと精神の深みがない。レクイエムは数少ない例外だ(ぼくは、苦悩の無いものには惹かれない)。
昨夜のレクイエムは、合唱(新国立劇場合唱団)もソリスト4人(特に、ソプラノの三宅理恵)も 共に素晴らしく、音響的には大変聴きごたえのある演奏だったが、モツレクとしてはやや宗教的な天上的な浄福感は弱かったのではないだろうか。最上のモツレクを聴くときの、体が震えてくるような救済感は感じられなかった。が、音楽を聴く喜びとしては申し分なかった。
メシアンは「トランガリーラ」について自分で書いている:「トランンガリーラ交響曲は愛の歌である。それは歓喜への賛歌であるが、(中略)、哀しみのさなかに、それを仰ぎ見たものだけが心に抱くことができるような歓びである…」。今夜のプログラムの2曲に共通するもの、ジョナサン・ノットが伝えたかったこと、はこれと同じだろう。
オペラシティーの靴箱型構造は、音響的には素晴らしいのだろうが(例えば、コロナの感染予防のためか合唱団はやや人数が少なく感じたが、響きとしては、耳の遠くなりつつあるぼくにも十分な厚みだった)、サイドの安い席ではステージを見ていると首がひどく疲れる。それにステージの1/3は見えない。これはちょっと残念。
それにしても、クラシックの演奏会は満足感高いよね。今回は、わけあって半額だったので、この2曲でたった1500円! ブラボー!!
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