すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ネット・ブログ・内省

2019-05-07 19:09:06 | 自分を考える
 パソコンがおかしくなってしまって、ちょうど10連休が挟まったので、復活に2週間かかってしまった(連休中も修理をしてくれていたのだ。感謝)。
 ブログが書けなかった感想が、主に三つ。
 ひとつは、味気ない感じ。
 ぼくのブログのような、一日のアクセスが50程度のものに過ぎなくても、それが奪われてしまうと、社会と繋がっている錨が切れてしまったような(と言えば大げさになるが)気が、始めの何日間か、する(すぐに慣れるが)。
 ということは、ぼくも、人間関係についての欲求が比較的希薄だと思われるぼくでさえ、ネットを介しての関係依存症に染まり始めている?
 二週間の間に、人に会ってもいるし、仲間と山登りに行ってもいるし、地域の集まりにも出ている。そちらの方がはるかに実質的で濃密な(現代風に言えば、リアルな)関係の在り方であるはずなのに、それで十分なはずなのに、にもかかわらず、あの、何日間か感じた味気ない感じは何なのだろう?
 哲学エッセイストの池田晶子が、「ブログというのが、現代風の自己顕示の典型だね。お互いにいっせいに、『私は』『俺は』と、誰だか知れない誰かに向かって主張している」と書いているが、その通りだと思う。もちろんその中にはこのブログも入っている。
 二週間、ぼくは自己顕示の、あるいは被承認願望を満たすための、手段を持てなかったのだ。それが、あの味気無さなのだろう。
 まあ、逆に見れば、それが始めの数日だったというのは、まだぼくの症状はごく軽い、ということだろうが。
 (フランスでは、ネットに接続できるというのは、基本的人権のひとつとみなされているようだが、日本ではどうなのだろうか?)
 ぼくはいまだにガラケーを使っているが、あと何年かすると使えなくなるのだそうだが、山の仲間たちが、「樋口さんはスマホを使い始めると絶対ハマる」と断言しているのだが、それは、ハマっている彼らを醒めた目で見ているぼくへの違和感、ないし願望なのかもしれないが、外れるに違いない。時代遅れの老人であることを自認することにしよう。
 二つ目は、これとは逆に、時間の余裕ができるってありがたいな、ということ。
 ここのところぼくは老化のせいもあって、一日にいくつものことができなくなっていて、本を読むペースがすっかり落ちていたのだが、パソコンがないと本が読めるじゃん!
 ぼくのようなやや長めのブログを書くということは、書いているその時間(けっこうかかる)だけでなく、例えば歩いている時などにも、往々にして何をどう書くのか思案しているということだ。これがなくなってしまうと、本が読める。CDも聴ける。
 上に「自己顕示」と書いたが、もちろんそれだけでなく、書くことを通して自分が頭の中でぼんやり考えていることをはっきりした形にしたい、ということが大きいのだが、そのためにはその前提がなくてはならない。インプットのないアウトプットは無い。ぼくのブログは自転車操業的だ。
 この二つと関連して、三つ目。この間に自分のブログを読み直してみたのだが、つまらないねー。自己顕示で、無い知恵をあるふりしていて。時たま良いことを言っているのは、内省的な時だ。それ以外は、知ったかぶりだったり虚勢だったりする。
 もっと謙虚に、さらに内省的にならねばだめだわ。

コメント
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