すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

三人の老婦人

2019-05-18 22:08:17 | 夢の記
 続けて三人の老婦人と知り合いになる。三人とも、物静かで教養豊かで、話していて心の和む人だ。三人はお互いに親しいようだ。
 そのうちの一人と、お墓参りに行く。ぼくの家のお墓のようだ。この機会にぼくの自慢の手作りのラーメンを食べていただきたい、と思うのだが、ひとつひとつ作るとゆであがるのに時間差ができてしまって、一緒には食べられないので、どうしようか、と考えあぐねている。けっきょく、老舗のお蕎麦屋さんでいっしょにおそばを食べる。
(場面変わる)
 三人は、今は参道の傍らの家に一緒に住んでいる。会いに行きたいと思うが、なかなか行けない。
(場面変わる)
 ある日、寺に行くと、途中で上の方から群衆が叫びながら走って逃げてくる。口々に「~だ」「~が出たぞ」と恐怖の声を上げている。伝染病をうつす蚊が次々に人々を刺しているらしい。ぼくも人混みに呑み込まれて流されて下りていく。とちゅうで三人の住む家の前を通るが、戸は閉ざされている。三人が和服を着て静かに座っているのが、曇りガラス越しにわかる。雨が土砂降りにふって来た。
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 かなり大事なものを含んでいると思われるので、紹介してみた。
 三人の女性のうち二人は心当たりがあるように思うが、二人とももう他界している。もう一人はわからない。そうすると、ぼくがお墓参りに出かけたのは、この三番目の女性とだろうか。
 いずれにしてもこの三人は、ぼくの求めている、心の安らぎとか叡智とかの象徴だろう。三人というのは重要で、三つが集まって大きな一つの全体を構成する。そういう意味でも、これは本来ぼくの魂の導き手になるべき存在だ。
 「ぼくは三人に会いに行きたいと思うがなかなか行けない」、というのは、ぼくがまだ導かれて魂の高い段階に至るような準備ができていない、ということだ。また、人々の間でパニックが発生した時、下る途中で彼女らの家の前を通るのだから、ぼくは「会いに行きたい」と言いながら実は、今のところ彼女らの前を素通りしている、ということだ。
 
 ぼくはいまだに、一方では静かな調和を求めていて、一方では大混乱を抱えている。あるいは、簡単に大混乱に陥るような心の状態にある。土砂降りの雨は、困難な状況をいっそう困難にするものとして、ぼくの夢によくあらわれる。
 そして、そのような大混乱の中では、調和や叡智は扉を閉ざしている。ただ、曇りガラスの向こうではあるが、そのようなぼくに背を向けているわけではなく、こちらを向いてくれているように思う。
 …ところで、ユングのいわゆる「元型」のなかに「老賢者」というのはあるが、あれは男性像であって、女性像がないのはどうしてだろう?「グレート・マザー」はこの夢の三人に当てはまらないと思うのだが。
 ラーメン(笑)が何のことかわからないが、夢の全部を無理に解釈する必要はないだろう。自分にとって意味のあるところを汲み取ればそれでよい。
コメント
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