すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

歩く・歩き回る

2018-12-30 23:11:41 | 老いを生きる
 ここのところ毎日快晴で朝起きるとまぶしいお日様が輝いていて、家を出て歩きまわらずにはいられない。一昨日は高尾山に行ったのだが、ちょっと物足りなかったためか、昨日も今日も歩き回っている。
 音楽の練習も読書もブログを書くことも後回しで歩く。今日は3時ごろ帰ってきて、食事当番の買い出しに行って、調理をして食べて7時ぐらいには疲れてベッドに入ってしまった。それで今頃起き出してこれを書いている。
 なぜこんなに、朝起きると無性に、歩きに出たくなるのだろうか? 胸の中の何かに駆り立てられるようにして歩いている。エサを求めて、あるいは番いの相手を求めて歩き回っていたころの本能の残り火? それとも今のぼくの心が落ち着かなく、じっとしていられないから?
 狭い家の中で楽器の練習をしたり本を読んだりするのはこのごろ苦手になりつつある?
 ヒトは、歩き回っている方が、物が考えられるものだ。
 目黒区はあらかた歩いてしまった。大きな地図で、歩いたところに緑色の線を引く。目黒区と、品川区の目黒寄りはすでに緑の網目になってしまった。毎日山登りに行くのは、交通費とか時間を考えると無理だし、来年は少し都区内や多摩地区の公園緑地や川筋を求めて歩くことにするかなあ。
 ドイツ文学を読むとドイツ人は本当に歩き回る人々だ。徒弟修業の遍歴時代の名残があるのだろうか、村から村へ、町から町へ歩き続ける。ゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」も、ヘッセの「知と愛」も「ガラス玉演戯」もケラーの「緑のハインリヒ」も歩く歩く。中でもぼくの愛するのが、ヘッセの「クヌルプ」だ。
 ベートーヴェンもシューベルトも歩き回るのが好きだったらしい。週末になると、近隣の田園や丘や林を、あるいは小川に沿って、あるいは遠くの村の居酒屋や踊り場を求めて、歩き回った。交響曲「田園」は、その中から生まれたものだろう。
 ドイツ人は今でも夏になると徒歩旅行をするのだろうか? ぼくの発声の先生はドイツ滞在が長いのだが、そのことについては知らないようだった。彼らが今でも歩く習慣を失くしてないのなら、いつかはぼくも真似をして南ドイツを歩いてみたいものだ。サンチャゴ・デ・コンポステラに向かうような、四国お遍路のような、宗教的なものでなく、アルプスにつづく山の麓の村々をつないで歩いてみたいものだ。
コメント
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