すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

騒ぎから遠くに

2018-12-31 22:48:19 | 無いアタマを絞る
 20年以上も前から1年に1回大晦日に会ってお酒を飲む相手がいたのだが、今年は会わないので淋しい。彼女は今夜はどうしているのだろうか。
 ぼくは紅白歌合戦を見る習慣もないわけだし、だいいち、(居間に行くと家族が見ているので耳に入るのだが)あの騒ぎが、盛り上がろう盛り上がろうとしているわざとらしさが、好きではない。
 ぼくはお祭りが嫌いだ。とくに神輿担ぎが嫌いだ。スポーツ観戦の熱狂も嫌いだ。人混みが、群れが嫌いだ。
 そういうのがニガ手だというのはぼくの性格だから仕方がないのだが。
 ヒトが、生き物の一種として、求めずにはいられないものは安心感だろう。自分がある集団に所属しているという安心感。そこに所属してさえいれば危険は少なく、食べ物も安定して得ることができ、しかも自分の命がその群れの一員としてずっと過去からずっと未来につづいていく流れの中にある、という安心感。
 「承認欲求」という言葉が現代ではしばしば話題になるし、実際いろいろな問題を引き起こしている。心理学では、「承認欲求は人間にとって最も基本的な欲求であって、これが満たされなければ生きていけない」ともいわれるのだが、これは本当はすべての生物の持つ安心欲求の一部なのではないだろうか。人間は、特に現代人は、その一部が肥大化しているのだ。
 家族の中にいる、村落共同体の中にいる、終身雇用の会社組織の中にいる安心感。そういうものを次々にないがしろにして空洞化しまうのと並行して、現代人はスタジアムの熱狂する観客の中の一人、祭りの日だけの神輿の担ぎ手の一人、大晦日やハロウィンの渋谷の雑踏の中の一人、自撮りのアップに熱中するネット空間の中の一人…という、一時的な群れの中に自分を見つけたがる。
 基本的な安心が感じられないから、人は他者に認めてもらいたい気持ちがより強くなる。「ここにいてもいいんだよ」と言ってもらいたなる。一時的な一体感を得たくなる。
 その時その時はそれで満たされたように感じても、ほんとうに持続的な安定的な安心感が持てない限り、欲求は果てしなく続き、かつエスカレートする。
 熱狂の中に自分の居場所を見つけようとするのは、ほどほどにした方が良いと思う。さもないと、いつかぼくたちはとんでもないところにいる自分に気づくことになるのかもしれない。集団の中の安心感を得るために、人は時には個であることを捨てさえしてしまうこともあるのだと、歴史は教えてくれている。
 ひとりで歩くのは好きだ。ときには友人と静かに酒を飲むのも好きだ。個であるぼくと相手との間に流れるおだやかな時間が好きだ。一体感はなくても良い。
 それでは皆さん、良いお年を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする