すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

オオカミの血・トラの夢

2018-12-21 22:23:57 | 山歩き
 まず、昨日の記事の訂正。
山を登るのに必要な筋力の衰えや心肺機能の低下は、山に登ってみれば自分ですぐわかる。たいした急登でもないのに登るのがきつい、すぐに息が上がる、これは紛れもない事実として受け止めざるを得ない。
 これに対して、発声は、自分の声を客観的に聞くことは不可能だから、自分がどういう状態にあるかは、感覚的に推測することしかできない。先生がはっきりと言おうとしないだけかもしれないのだ。だから、ひとつひとつ丁寧に直されるということは、声をつかさどる筋肉の力および柔軟性が落ちていると考えて、もっと危機感を持った方がいいのだ。
 広瀬さんのアドヴァイスはやはり正しいのだと思った方が良い。

 …ということに気が付いたのは、今日ほぼ一か月ぶりに山登りに行ったからだ。中央沿線の扇山1138m。標高差800mほどの、比較的楽な登りのはずなのに、以前に登った時よりだいぶきつく感じた。
 幸い、暖かな快晴で気分は最高に良かった。春から夏は、木々の緑や様々な花に惹かれて山に登る。秋は紅葉に惹かれて登る。葉が落ちてしまって花もない冬の間は、暖かな日の光を求めて登るのだ。これは格別に心地よいものだ。歩いている間も、山頂でお弁当を食べる間も。だから冬の山登りは、晴れた日に限る―わけではないけれど、できる限り、晴れた日に登りたい。
 一か月ぶりに登っていると、今まで滞っていた血が体の中を再び巡り始める。気持ちが盛り上がらず何となくテンションの低い日々を過ごしていたのが、再び、本来の居場所に帰ってきた気がする。
 むろん、現代人のぼくの生活の場所は、本来も何もなく都会なのだが、ぼくたちの血の中には(最近では、「遺伝子の中」とか「DNAの中」とかの言い方の方が正確なのかもしれないが、「血の中」という方がぴったりくる気がする)、自然の中で暮らした遠い記憶があるのだろう。子供の頃、という意味でなく、もっと遥かな、ぼくという個を越えた記憶(子供の頃、ということだったら、農村に行けばよいわけだ)。
 この間、ご近所の奥さんと立ち話をしたら、「寒くなると犬がてきめん元気になるのよね。雪なんか降るともう大騒ぎだけど、そうでなくても寒いだけで元気。夏の間はダメみたい」と言っていた。現代の犬がみんなそうかどうかはわからないが、そういえば「犬は喜び庭かけまわり、猫はこたつで丸くなる」という歌があった。
犬も猫も、ぼくたちと同じように、血の中に遠い記憶があるのだろう。犬は雪の中を走りながら、自分の中に湧き上がるオオカミの血を感じているのかもしれない。猫はうつらうつら、トラだったころの夢を見ているかもしれない。
 ぼくたちは?
コメント
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