泉岳寺(その1)
泉岳寺駅
山門
、「泉岳寺」の額は、晋唐の墨蹟研究者
であった大野約庵による書。
大石内蔵助良雄銅像
この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により
鋳造されたもので、所有が転々としていたが、
泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕した。
内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、
連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる
姿を表したもの
山門を裏から撮る
本堂
旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい焼失。
現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築。
本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、
また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められている。
本堂では坐禅・読経などの修行が住職をはじめとした
修行僧により厳粛に勤められている。
正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、
釈迦の説法のことを指す。
水琴窟
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今日のメモ
葛ハイひらば歩きは、亀戸緑道歩きに続いて2回目。
今回は港区の名所歩きとなりました。
地下鉄駅名も泉岳寺、駅から近距離にあります。
浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られていることで有名であり、
現在も多くの参拝客が訪れる。また、毎年12月13日、12月14日に
は義士祭が催される。
泉岳寺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
を参考にしました。
紋付、家紋
その家の家紋を見ると家柄が分かるとか言いました。我が家は≪竹に横モッコウ≫という紋でした。
着物を着たこともなければ持ち合わせていません。
また東京においでの説は、機会がありましたらお寄りください。
泉岳寺~総持寺となりますとかなりの距離、頑張りました。
泉岳寺の裏手の方面を歩きましたが勝つしか下町とはだいぶ違う町並み・・・と皆さんそんな語りで歩いていました。
そうですか、浪曲の愛好家でしたか。
またその浪曲が復活しつつあるようで、NHKの番組にも組み込まれているようです。
そうですね、廣澤虎三、玉川勝太郎は同じ年代ですから好き好んで聞いたほうです。
特産はだいぶむかし浪曲に入れ込んで、
師と題目がころころ出てこられます。なつかしや、浪曲。
この辺はなんと言いましても東京タワーがメインです。
葛ハイも、高齢者が多くなりまして山登りもよいですが、平場歩きも取り入れてそのお仲間に加わりました。
義士の墓がズライト並ぶと圧倒されます。
そこかしこに線香の煙が耐えることがないといいますから、日本人の心もまんざら捨てたものではありません。
山門を入るとかなりの広場、その右方に高輪学園がありました。
良く覚えておられます。
忘れかけていた頭の中にまた少し蘇ってきました。
若い頃 色留袖を作って家紋を入れる時 丸に違い矢 なんですが 好きじゃなかったんです。
呉服屋さんが 好きなのでいいんですよ って言われました。
もともと家柄なんてない家の出ですから
よく似た丸に鷹の羽(?)浅野内匠頭 のにしました。
叱られたのは 当然でした。
金沢文庫に住居を置き京急で直通で来られた記憶があります。
この付近にはよく来るのですがお寺さん。にお参りしたのは思い出せません。
10年ひと昔とはよく行ったものです
昨年の3月、増上寺から総持寺まであるいたときに泉岳寺にも立ち寄りました。
いつか義士祭も見たいものです。
大石内蔵助初め四十七士が眠る泉岳寺。
忠臣蔵で有名な泉岳寺ですね。
桃中軒雲衛門、随分古い浪曲家の名前が出て来ましたね。
昔浪花節は良く聞いてました。
一番聞いたのが、広沢虎三の清水の次郎長。
次に良く聞いたのは、玉川勝太郎の天保水滸伝。
それからもう大分年月が経ちました。
年も取ったもんです。
有名なお寺なのにいつも近くの東京タワーばかりです。今度ゆっくり行って見ましょう。東京も
いいところたくさんありますね。
もうかれこれ30年近くなりますでしょうか。
線香の煙が絶えなかったこととすぐそばに
学校があったことくらいしか覚えていません。
またいろいろと社会科勉強で知識を深めることが出来ました。
ありがとうございました。。