座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆だから、こう祈りなさい。

2013年10月29日 06時54分09秒 | 聖書

「天にいます私たちの父よ……。」(マタイ六・九)

真の祈りは、主のすべての祈りのように、子が父に呼びかける心、すなわち「私たちの父よ」で始められなければならない。私たちが「立って、父のところに行って……」と言い得るまでは、神に受け入れられる祈りは出てこない。子どものように単純な心はすぐに、「天にいます」父の荘厳さを見させ、「御名があがめられますように」という真心のこもる崇敬を上らせる。「アバ、父」という子どもの片言が成長して、「聖なる、聖なる、聖なる」というセラフィムの叫びとなる。
全心全霊をもってする礼拝から、燃えるような宣教精神までの距離は、わずか一歩にすぎない。この宣教精神は、神への愛と、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と敬虔に主をあがめることの必然の結果である。
次に心からの神に対する信頼が続く。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
彼は主に依存しているだけでなく、さらに聖霊の光に照らされる時、自分の罪深さを発見するので、次のようにあわれみを願う。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、罪赦され、キリストの義を着せられ、神に受け入れられたことを知り、彼は常に聖くあることをへりくだりつつ懇願して、「私たちを試みに会わせないで……」と言う。真に罪赦された者は、再び罪を犯すのではないかと恐れる。義とされた者は聖くなろうとする。「私たちの負いめをお赦しください。」これは義認である。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」これは消極積極両面の聖潔である。
以上の結果として次の賛美のことばが続く。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」私たちは、私たちの王が摂理の中に支配されること、やがて、恵みによって地の果てに至るまで統べ治められ、その統治の尽きないことを喜ぶ。

 


士師記6章36-40節

2013年10月29日 06時52分43秒 | 聖書

6:39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」


ギデオンは、神様が自分をたてて、イスラエルの民を救ってくださるのだということを知りました。

しかし、自分には自信がありません。

従って、もし神様が自分と一緒にいてくださらなかったならば、戦いに勝つはずはないと思ったようです。

そこで彼は神様に願って、自分の求めることをなしてくださいと求めました。

それは2度に渡ることでした。

1度目は、土地は乾いていますが、羊の毛の上にだけに露が降りるようにしてくださいという願いでした。

2度目は、羊毛だけが乾いて、土全体に露が降りるようにしてくださいということでした。

神様は、ギデオンのその両方の願いに答えてくださいました。

それは確かに神様が彼を立てて、彼を通してイスラエルの民を救ってくださろうとしていたからでした。

ですから、彼に確信とそれに伴う勇気を与えてくださったのです。



哀歌5章4-5、21節、ヘブル人への手紙5章7-9節(聖書本文は、口語訳)

2013年10月29日 06時50分30秒 | 聖書

★哀5:4-5  われわれは金を出して水を飲み、値を払って、たきぎを獲なければならない。
われわれは首にくびきをかけられて追い使われ、疲れても休むことができない。

★哀5:21  主よ、あなたに帰らせてください、われわれは帰ります。われわれの日を新たにして、いにしえの日のようにしてください。

★ヘブ5:7-9  キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。

彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、…

■O:今日のコラム

10月29日の朝です。今日1日も神様を求め、苦しみの中でもイエス様を見上げ、聖霊様によって祈りと願いとをささげていきましょう。主こそ全ての源だからです。

僕らの生活では、当たり前のように水道料金を支払い、ガス料金を支払い、電気料金を支払っています。今の社会だから、とも思いますが、神様が本来用意してくださっていた創世記の生活ではないのだと思います。

それは、僕ら人間の罪の結果です。神様を認めなかった罪です。神様以外のものを求め、神様の声に聞き従わなかったことです。

だからこそ、イエス様は、僕らが歩むべき道を整えてくださいました。僕ら以上に激しい叫びと涙とをもって、死から救う力のある天のお父さんに、祈りと願いとを捧げてくださいました。そして、自分の思いを捨て、天のお父さんの思いを成し遂げるために、救いの源となるために、十字架と復活を味わわれたのです。

苦しみの中で僕らは、天のお父さん、イエス様、聖霊様に従順になることを学ぶことができます。主よ、あなたに帰らせてください!という祈りと願いとを捧げることができるのです。

そうするならば、命の水なる聖霊様が溢れてくださいます。聖霊様の炎が溢れ出るのです。弱った者に力を、勢いのない者に強さを、走っても疲れることなく、歩いても弱ることがない者へと聖霊様が力を与えてくださるのです。イエス様のもとに行くならば、イエス様のくびきは負いやすいのです。イエス様が休ませてくださるのです。

だから、主のもとに行きましょう。主のもとに帰りましょう。主を賛美していきましょう。

■A:考えてみよう

主に背を向けている部分があるかないか、聖霊様に教えていただきましょう。
ある部分を悔い改めて主のもとに帰りましょう。主のとこしえの道に導いていただきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


◆その頭は純金です。

2013年10月28日 16時14分12秒 | 聖書

髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く……。(雅歌五・一一)

主イエスを説明するためには比較するものがない。しかし花嫁であれば、身近で最善の比較を見いだす。
イエスのかしらによって、私たちは主の神性を理解することができる。「キリストのかしらは神です」とあるからである。そして純金のかたまりは、想像し得る限りの最善の比喩であるが、それでも主の尊さ、純潔、親愛、栄光を述べるには余りにも不十分である。イエスは黄金の粒ではなく、無限に大きな黄金のかたまりであり、天地にたぐうべきもののない貴重な存在であられる。被造物は鉄や粘土にすぎず、すべて木、草、わらのように滅びてしまうであろう。しかし、神の被造物の永遠不死のかしらは、いつまでも輝かれる。
ふさふさとした髪は、主の男らしい力を表す。私たちの愛する主には、いささかの柔弱さもない。主は最も雄々しく、獅子のように大胆であり、雄牛のように勤勉であり、鷲のように軽快であられる。かつて、人々に侮られ、捨てられたが、すべての想像を絶した美がそこに見いだされる。
 主のかしらは麗しい黄金
 甘美な香りに満たされ
 烏の羽のように黒い毛が
 ふさふさとその肩にかかっている
主のかしらの栄光は刈り取られることなく、とこしえにたぐいない栄光をいただく。
黒髪は青年のはつらつさを示す。イエスには青春の露が宿っているからである。人は歳月とともに活気を失う。しかし、主はメルキゼデクのようにとこしえに祭司であられる。人は来てまた去って行く。しかし、主は神として世々限りなく御座に座しておられる。
私たちは今夜主を見、主をあがめよう。天使は主を仰ぎ見る。主によって贖われた者は主から目を背けてはいけない。主のような愛すべきお方がどこにおられるであろう。おお、主と一時問の交わりをもちたい。わずらわしい心労よ。去れ。イエスは私を引き寄せてくださる。主の後を慕って私は走って行く。

 


士師記6章33-35節

2013年10月28日 07時57分11秒 | 聖書

6:35 ギデオンはマナセの全域に使者を遣わした。それで彼らもまた呼び集められ、彼に従った。彼はまた、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリに使者を遣わしたので、彼らは合流して上って来た。


民はギデオンの働きによって、主につく者として変えられました。

そして、彼がマナセの全域に使者を遣わしますと、その求めに応じて人々が集まりました。

そのかけ声はアシェル、ゼブルンそしてナフタリの部族にまで及びました。

すると彼の求めに応じて、多くの人が参集してきました。

いよいよ戦いの準備ができたのです。

 ところで、ギデオンが招集したイスラエルの人々は、12の部族の全部族から集めた人々ではありませんでした。

従って、この士師と言いますのは、いつでもイスラエルの全部族の上に立った人々であったというのではなくて、特定の地域に士師として立てられた人であったということがわかります。

つまり、他の土地でも、他の士師が同時に立って治めていたということがわかるのです。

士師はこのようにして、特別な敵に対して、その地の人々のためにたてられた人々であったのです。



◆悪  い  冗  談

2013年10月28日 07時54分59秒 | 聖書

(分別を失った者)は、燃え木を
死の矢として投げるが、
 隣人を欺きながら、
「ただ、戯れただけではないか。」
と言う者も、それと同じだ。          (箴言二六18―19)

ユーモアは、人生の潤滑油です。私の友人で、こんな電話を知り合いの人にかけた人がありました。「もしもし、こちらは電話局ですが、きょう午後一時ごろお宅の電話回線の大掃除をしますので、ごみが出るかもしれません。お宅の電話の受話器に、ビニールのカバーをしておいてください。」「はいはい、そうします。ありがとうございました」と、相手は大まじめで答えました。しばらくしてから、かつがれたと分かって大笑いとなりました。
少しぐらい人をかつぐところがあっても、よいユーモアは人生を楽しくします。自分自身が全くの善意に立ち、また人の善意を素直に信頼し、自分をふくめて、人間の弱さや愚かさを客観的にながめるところに、ユーモアがあります。
しかし、まるで、火薬庫の中に火のついたたいまつを投げこむような悪い冗談もあります。ある会社のサラリーマンは、エイプリルフールだといって、「あのなあ、新宿のラブホテルからA君とBさんが出てくるところを、きのう見ちゃった」とやってしまい、AさんBさんは二人共、会社をやめなければならないような破目になりました。まことに悪い冗談です。「なに、ちょっとからかっただけさ」と、しらばくれてすむ問題ではありません。
善意がなく、人の徳を建てる気持ちがなく、自分ばかり賢そうに立ちまわり、自分が一番愚かで弱い者だと認める勇気がない偽善者には、冗談を言う資格がないのではありませんか。ほんとうのユーモアが流れ出る人は、思いやりのある人に違いないと思います。

 


◆わたしが世からあなたがたを選び出したのです。

2013年10月28日 07時53分55秒 | 聖書

(ヨハネ一五・一九)

ここに区別する恵み、選び出す愛について記されている。なぜなら、ある者は神の愛が特別にそそがれる対象とされているからである。この選びの崇高な教理を恐れてはならない。あなたの心が最も重苦しく衰える時、これはあなたにとって最高の強心剤となる。
恵みの教理を疑い、それを日陰に投げ捨てる者は、エシュコルの尊いぶどうのふさを口にすることができない。彼らはよくこされたぶどう酒や髄の多いあぶらみを失う。ギルアデの乳香もこれに比することはできない。ヨナタンが、森の中で見いだした蜜を口にするとすぐにその目が輝いたとすれば、この蜜はあなたの心を明らかにし、神の国を愛させ、学ばせるものである。過食を恐れずこれを食べよ。それを味わい、それがおいしすぎるなどと恐れてはならない。王の食卓の食物は、その廷臣の一人でも害することはない。
あなたの心が大きくされ、神の永遠の差別的な愛をさらに深く悟ることができるように願え。あなたが選びの高峰を登りつめたならば、その姉妹峰である恵みの契約の峰で休息せよ。神の契約は、その陰に私たちが身を置く巨大な岩である。神の契約は、キリスト・イエスを保証人としてもち、震えおののくたましいの静かな憩いの場所なのである。
 神の誓いと契約と血は
 荒れ狂う怒濤の中にも私を支え
 地の支柱がすべて洗い去られる時も
 なお、わが力またわが支えである
もしイエスが私を栄光の中に伴おうとされ、また父なる神が、御子のたましいの苦しみの報酬の一部として、私を御子に与えることを約束されたならば、たましいよ、神ご自身が不誠実となられ、イエスが不真実となられないかぎり、おまえは安全である。ダビデが主の箱の前で踊った時、彼はミカルに、神の選びがそうさせたのだと語った。
私のたましいよ。恵みの神の御前に歓喜せよ。そして心の喜びに踊り上がれ。

 


士師記6章28-32節

2013年10月27日 08時41分10秒 | 聖書

6:30 ついで、町の人々はヨアシュに言った。「あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」


翌朝になって町の人々は、バアルの祭壇とアシェラ像が壊されていることを見つけました。

そのことを、ギデオンの父ヨアシュに告げました。

そして、あなたの息子を連れ出して殺しなさいと、彼に告げました。

ギデオンが、自分たちが仕えている神々を破壊したからです。

この言葉を聞いたギデオンの父は、息子のギデオンを咎めたかと言いますと、そうではありませんでした。

彼自身もそのことによって、心が開かれたようでありました。

自分たちがしてきたことに、ギデオンがしたことによって、気づかされたのです。

彼は町の人々に言いました。

バアルに仕えている者は朝までに殺されてしまう。

また、もしバアルが神であるなら、バアルが自分で自分の祭壇を築けば良いのだと告げました。

バアルが本当の神であるならば、バアルは生きて働くはずであるというのが、その理由でした。


.


◆干渉か祈りか

2013年10月27日 08時39分23秒 | 聖書

自分に関係のない争いに干渉する者は、
通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。(箴言二六17)

そんなことをしたために、がぶっとかみつかれる姿が目に浮かぶようです。ところで、この「関係ない」ということばを、私はあまり好きではありません。「カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょう」という替え歌がはやったこともありました。とにかく、このことばは、「君が君の好きなように勝手にやることに、ぼくも干渉しない。その代わり、ぼくの勝手にすることに、君も干渉するな。君は君、ぼくはぼく。関係ない。関係ない」。こんなふうに、私には聞こえるのです。
むしろ「袖触れ合うも多生の縁」といわれるように、やはり人の汗や涙に関心を持ち、人の悲しみを悲しみとし、人の喜びを喜びとし、人の重荷を分け合って担おうとするほうが、人間らしいあり方だと思います。
では、自分に関係がない争いに干渉するなとは、どういうことでしょうか。できるだけ知らん顔をしていろ、かかわるなという意味でしょうか。そうではありません。
第一に、自分の肉の力はけっして、その争いを解決する力がないのに、あると思いこんで口出しすることではありませんか。
第二に、神だけがほんとうのさばき主・報い主であるのに、自分がすべてを評価しさばくことができると思いこんで、干渉することではないでしょうか。
第三に、祈り深い態度、いいえ、深い祈りそのものによってその当事者と自分の魂とが深くつながっていることなしに、つまりそのような祈りの態度なしに、割って入ることではないでしょうか。
このような意味で関係のない争いに干渉するなら九九%痛い目に会うと、クラークは言いました。干渉したり口出ししたりしないで、人のために祈れる人になりたいと思います。

 


◆次のことばは信頼すべきことばです。

2013年10月27日 08時38分08秒 | 聖書

(Ⅱテモテ二・一一)

パウロはこの「信頼すべき」という意味のことばを四度用いている。その最初はテモテへの手紙第一、一章一五節である。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」次はテモテへの手紙第一、四章八、九節である。「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。」第三は、テモテヘの手紙第二、二章一一、一二節である。「次のことばは信頼すべきことばです。『……もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。』」第四は、テトスヘの手紙三章八節である。「これは信頼できることばですから……神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」私たちはこの四つのことばの相互関係をたどることができる。
第一は、偉大な贖い主の使命の中に示されるように、私たちの永遠の救いの基礎を、神の無代価の恩寵の中に置くものである、第二は、私たちがこの救いを通して得る二重の祝福、現在と永遠との二つの祝福を断言している。第三は、召された人々の義務の一つを示す。私たちはキリストのために苦しむように定められており、「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」との約束が与えられている。最後のものはクリスチャンの奉仕の活動的な面を示し、良いわざを励むことを命じている。こうして私たちは、無代価の恵みに救いの根底をもち、現在と将来の生活に救いの特権を与えられ、さらに二つの枝――御霊の実によって飾られた、キリストと共に苦しみ、キリストに仕えるという二つの枝――をもつ。これらの確実な信頼すべきことばを心に留めよ。
異邦人への使徒パウロは、これらのことばの確実性を証明した。それは今なお一つたりとも廃ることなく、そのまま受け入れるに足るものである。今これらのことばを受け入れ、その確実性を実証しようではないか。これらのことばを家の四隅に記そうではないか。