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◆その実は私の口に甘いのです。

2016年08月25日 07時36分48秒 | 聖書
(雅歌二・三)
 
信仰は、聖書の中で、あらゆる感覚の象徴として語られている。
それは視覚である。「わたしを仰ぎ見て救われよ。」それは聴覚である。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」信仰は嗅覚である。「あなたの着物はみな、没薬、アロエ、肉桂のかおりを放ち……。」「あなたの名は注がれる香油のよう。」信仰は霊的な触覚である。この信仰によって、女はキリストの後ろから近寄って主の着物に触った。そしてこれによって私たちもいのちのよきことばに触れるのである。信仰はそれとともにたましいの味覚である。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」キリストは言われた。「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」この「味覚」は、信仰の最も高度な働きの一つである。
信仰の最初の働きの一つは聴覚である。私たちは外の耳だけでなく、内の耳をもって神の声を聞く。それを私たちは神のことばとして聞き、かつ神のことばであることを信じる。これが信仰の「聴覚」である。その後、私たちの心は私たちの前にある真理を見る。すなわちそれを理解し、その意味を認める。それが信仰の「視覚」である。次に私たちは、その尊いことを発見し、それを賞賛し始め、それがどれほど良い香りを放つかを見いだす。これが「嗅覚」の信仰である。それから私たちは、キリストにあって備えられているあわれみを自分のものにする。これが「触覚」の信仰である。そして、喜び、平和、楽しみ、交わりなどが続く。これが「味覚」の信仰である。
これらの信仰の働きの一つ一つは、どれも霊的向上に導くものである。まずキリストの声を、たましいに対して語られる確かな神の声として聞くならば救われる。しかし私たちに真の喜びを与えるのは、聖い味覚によりキリストを心のうちに迎え入れ、主の麗しさと尊さとを知って、たましいの糧とする信仰である。
 
 

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