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◆ダビデは心の中で言った。

2014年10月17日 07時11分16秒 | 聖書

「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう……。」(Ⅰサムエル二七・一)

ダビデがこのように考えたのは、全くむだな心配だった。なぜなら、神がサムエルによってダビデに油を注がせられたのが無意味であると考える根拠は、何もなかったからである。主がそのしもべを見殺しになさったことは一度もなかった。ダビデは幾たびとなく危険にさらされた。しかし、神が干渉されて救い出されなかったことは一度もなかった。彼の直面した試練は種々であった。それは一つの形をとってではなく、多くの形をとっていた。しかしそれぞれの場合において、試練を送られた神は、恵みによって逃れるべき道をも備えられた。ダビデはその半生の記録をたどって、「ここに主が私を捨てられた証拠がある」と言うことのできる事実を一つも見いださなかった。なぜなら彼の過去は、正反対のことを証明しているからである。彼は過去の神のお取り扱いを考え、今後も依然として神はお守りくださると結論を下すべきであった。
しかし、私たちもダビデ同様に神の助けを疑ってはいないだろうか。それは全く理由のない疑いではないだろうか。父なる神の善意を疑うわずかの理由でもあるだろうか。神のいつくしみは驚くべきものではなかったか。神は一度でも私たちの信頼を裏切られたか。否、私たちの神は、どんな時にも私たちを離れることはなかった。
私たちには暗い夜がある。しかし愛の星は暗路を照らす。私たちは激しい戦いを経験した。しかし神は私たちの頭上に高く保護の盾をかざされる。また私たちは多くの試練を経験する。しかしそれらは決して害を与えず、常に益をもたらす。それで、私たちの過去の経験から引き出される結論はこうである。六度の私たちの苦難に共にいてくださった神は、七度日の苦難の時にも決して私たちを捨てられない。真実な神に対する知識は、神が私たちを終わりまでお守りになることを証明する。したがって、事実に反する結論を下さないようにしようではないか。どうして私たちの神を疑うことができようか。

 


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