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◆わたしが与える水を飲む者はだれでも、

2014年10月06日 08時13分33秒 | 聖書

決して渇くことがありません。(ヨハネ四・一四)

イエスを信じる者は、現在自分を満足させ、かつ永遠に満足させるものを主イエスの中に見いだす。その信仰の中に、自分を満足させ、幸福にさせる喜びの泉と慰めの源を見いだしている。だから、信者を牢獄に入れてみよ。彼はそこでも良い友を見いだすであろう。信者を不毛の荒野に置いてみよ。彼はそこで天来のパンを食するであろう。また信者から友情を奪ってみよ。彼は「兄弟よりも親密な者」に出会うであろう。信者のこの世にある希望の基礎をくつがえしてみよ。彼はなお主に信頼し、動揺することはないであろう。
人の心は、イエスが入ってくださるまでは、よみのように飽くことを知らない。しかしイエスが来られるなら、杯は満ちあふれる。信者にとってキリストのみがすベてのすべてとなるほど、キリストの中には満ち足りたものがある。真の聖徒はすべてを備えておられるイエスに満足しきっており、その生きた泉からさらに多くを飲みたいという以外には願望をもたない。信者よ。あなたはこの意味において渇くのである。それは苦痛を伴う渇きではなく、愛着から来るものである。あなたはイエスの愛をさらに十分に楽しもうとしてあえぎ求めることが、非常に甘美なものであることを見いだすであろう。
昔の人は言った。「私は手おけを頻繁に井戸に下ろして水を汲んでいた。しかし今、イエスに対する私の渇きは飽くことを知らないようになり、井戸そのものにくちびるをつけて直接飲みたいと思っている」と。信者よ。これが今のあなたの思いであろうか。すべての願望がイエスにおいて満たされ、イエスをさらに知り、イエスとさらに親しく交わりたいと願うほかに何も願わないか。それなら、絶えず水源に来て、価なくしていのちの水を飲め。イエスは決してあなたがいのちの水を飲みすぎるとは思われない。むしろ、いつでもあなたを歓迎し、「飲め。愛する人たちよ。大いに飲め」と言われるのである。

 


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