トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

理念の問題を更に

2020-12-03 17:08:01 | 日記
笑い話から話そう。五島勉が「ノストラダムス理念は、キリスト教理念を越えている」と著書に。でも、どちらもフランス革命前であり、理念には関係なかった。理念という言葉自体はプラトンの時からあったにしろ、理性主義で人間中心の考え方は本当にフランス革命から出たわけだ。
 若い時、僕は一時ルター派に偏見を持った。その信徒たちは難しい神学理念の話ばかりするから。同様の事を言っていた旧友も多い。でも、あのM・ルターは神様中心の信仰に戻そうとしただけ。人間中心の理念を作ろうとしたわけではない。ルターの伝記を読み、ますます変に思った。「日本人のキリスト教誤解のせい」と言った人もいたが、今思うに、僕の行った教派とは別の意味で、人間中心の理念をキリスト教に当てはめて解釈したに違いない。世界的な現象だろう。19世紀のヨーロッパのキリスト教は本当に理念化・人間中心化が入り込み、すさましい理念論争と宗教戦争も繰り広げられたわけだし。経済格差も広まり、大変な状態になったわけだ。国家・民族理念みたいなものも起き始めたわけだし。明治以降の日本の仏教も理屈が多くなっていった。日本の場合、宗教戦争が近代以降は起きなかった点は大いに評価したいが。日本仏教もその影響受けたわけだ。
 でも、肝心な点だが、どんな理念も人を結ばない。一人一人脳の構造が違うため、同じ理念書を読んでも解釈が本当に一人一人違うから。更には、理性面ばかり交流しても、人間は心が感動、更には、共有できるだろうか。一理念の件に限らず、どんな人とのやり取りでも、理性ばかりでは心が結ばれず、参ってしまうのではないだろうか。猛烈に寂しくなる。
 島田療育園にいた身障園生でクリスチャンのM氏は常に寂しさを訴え、人付き合いも苦手だった。M氏も聖書から理屈ばかりこねていた。でも、そうではなく、聖書の言葉をただ黙って、理屈抜きで、人と分かち合えば、寂しさはなかったし、人とも相当付き合えた。島田の中でも幸福になれたし、聖書の分かち合いから親友や恋人も生まれた。結婚も可能だったかもしれない。残念に思う。僕にもそうしたら、僕も非常に早くに聖書に関心持ち、多くの人たちとも祈れた。歎異抄や仏典も更にそうした。僕も非常に早く何かの理念を捨て、発展できたのにと思うが。M氏に限らず、現代の人間中心の理念は残念に思う。

理念について

2020-12-03 09:45:19 | 日記


 「理念は心のアヘンなり」ではないのか。多くの旧友たちの挫折とか、身障運動、福祉運動の挫折、例の教派の件などから、そのような事に気が付かざるを得ない。一つの何かの理念に執着すると、それしか見えなくなり、違う考え方の人たちを徹底的に叩いたり、自分の状況や力量も見なくなり、ムリな事して、生活も成り立たなくなった例も見てきたし。理念から離れても、人と付き合えない例も。恐ろしい。
 「理念」と言っても、人々は多様だから、当てはまらない例が必ず出てくる。身障者同士でさえもそうである。
 「理念」は1789年のヨーロッパのフランス革命から出てきた言葉かもしれない。それ以降、ヨーロッパの哲学史では「理念、理念」になっている。そのフランス革命後、ナポレオンが出て、考えの違う国々と戦争した。思えば、明治維新から195年までの日本、ロシア革命後のソ連、飛んで中国の文化大革命、ポル・ポト、...理念が強い国は戦争や虐殺が。無論、ナチス・ドイツとか。「理念なき改革」という新聞の政府批判を目にした事があるが、どんな理念が良いのか。その報道は無責任だと思う。政府を弁護はしないものの、マスコミのその報道はおかしいと。
 身障運動、福祉活動は何かの理念に基づきやるものだろうか。また、新約聖書の時代に「理念」はあったのかと。パウロの書いた「教会の頭はイエス・キリスト」も、文の流れからして、当時早くも分裂がたくさん起きて、悩んでいたパウロが考え出したものであり、理念とは根本的に違うはず。おかしいと。理念の事はイエスも、パウロも、親鸞上人もシャカも知らなかったはずだ。
 でも、19世紀にはヨーロッパの各キリスト教派は理念的になり、ケンカしたり、労働者搾取に利用もしていた。ならば、マルクスの言った例の「アヘン」も理念のことかも知れないと連想されるが、その件は僕の力量の及ぶ所ではないので、述べられないわけです。
 フランス革命以来の理念執着を人類は手放す時に来ているかもしれません。「皆、同じ命を持つ人間」ならば、何かの理念は必要ないわけだし。...。

(何かの理念に僕もとらわれ続け、本来あるべき何かの発展が今日まで遅れたのかもしれない。ただし、鏡を見ないと自分の姿は見えないように、僕の具体的な例は書けませんが。だから、大変になった旧友たちのことが気になると。彼らを通して、自分を抑えてきたものを知ろうとしたわけです。結果的に、「理念は心のアヘン」という事にもたどりつきました。)