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仲間主義の弊害

2021-05-28 16:15:44 | 日記
世論が仲間主義の時はヘルパーという仕事も出てこない。何故なら、介護を必要とする人たちに広く関わるのがヘルパーだが、仲間主義は内輪の人たちの世話しかしないようになるから。現に、昭和・1980年代までの日本社会はそれが当たり前だった。昭和の頃の福祉会の話し合いや文章を思い出すと、「多くの人たちが集まる仲間関係を作って、そこに身障者や盲人も入れて、仲間内で介護する」という論調が多かった。身障者の中にも同調の動きがあった。でも、例えば、「寝たきりの父親の介護に疲れ果てた28歳の娘が金づちで父親を叩き殺して、逮捕」というニュースがあるなど、当時から高齢者介護の問題は深刻で、ヘルパーの需要はあったが。とにかく、福祉関係もものすごく内向き。その場合、ヘルパーも、ボランティアも成立しないわけである。ボランティアをする人たちも次第に合コンみたいな仲間関係作りに精を出す始末。もっとも、当時は政界は宴会政治が当たり前だったし、会社関係もそれで仲間関係作りに精を出していた。日本全体がそのような感じだったようだ。その果てが会社不正を皆で隠ぺいした雪印、東芝、三菱電機だったし、悪用したのがオウム真理教を作った麻原である。


  障碍者施設やハンセン氏病療養所内では、彼ら同士の仲間関係作りを強いられた。これは自分たちの意志ではなく、世間に強いられたわけだから、もっと始末に悪い。障碍や病気も仲間関係作りの材料になると思われたらしい。僕と親しくなった元患者の伊藤まつさんも、島田の身障園生たちも、それについては「煩わしい」と嫌っていた。仲間、仲間と言われては、個性とか自分の意志が消えてしまうからね。

  時はかなり逆上り、明治後半以降。政府は小学を通して、「日本人としての仲間意識」を持たせる政策を行ない、次第にエスカレートしていった。ピークは第二次世界大戦の時であった。その意識は終戦でどうなったのだろうか。確かに、民族主義は影を潜めた。でも、「日本」という大枠は崩れたが、仲間意識追求心は残り続け、家庭や学校を通して戦後生まれの世代にも受け継がれ、以上書いた様子にもなったとも考えられる。心理的な問題だから、物証はないにしろ、そのような気がしてならない。

  因みに、仲間関係と友情は全く別のものである。昔の僕も両者の言葉の区別が付かなかったが、何かの仲間でなくても友人になれた人達はネット以前にもたくさんいる。逆に、何かの会の仲間で一緒にコンパして楽しんでも、すぐに縁が切れた人たちも多い。友情には互いの個性の尊重があるから、良いものだと思う。でも、一緒に何かするだけで個性を認め合わない関係は僕の価値判断では、良くないになる。

   以上は世界的にも当てはまる。今もかなりの国がそうかも知れない。「ドイツ民族の仲間意識」を非常に尊重したドイツはナチスを生んだではないか。ある若い伝道師は「同じ人間という仲間意識を持たないとダメだ」と在日韓国人差別問題に因んで言っていた。でも、そのような仲間意識は可能なのか。可能として、何かの宇宙人と戦争になった時だけだと思う。自分の近い方が仲間意識になることをその人は気が付いていなかったようだ。第一、新約聖書を読んでも、イエスは仲間意識は尊重しなかった。そのキリスト教関係は明治から仲間意識を尊重してきたが、非常におかしい。愛と仲間意識は根本的に違うわけである。仲間意識は内向きで狭いが、愛は外向きでどこまでも広いわけだから。伊藤節男無教会伝道師も僕にそのように教えてくれた事も思い出します。


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