旧約聖書「雅歌」には恋愛の様子が鮮やかに描かれているし、万葉集にもたくさんある。人が男と女に分かれていること自体が神秘的である以上は両者が求め合い、惹かれ合い、好きになり合うのは当然の摂理だろう。たとえ身体がどんなに不自由でも...。
あの日以来、秦野幸雄は小野雪子のことばかり想うようになっている。テレビを見ている時も、みなで歌を聞いている時も。職員に「今朝は体の調子はどう?」と聞かれても、返事に時間がかかることもある。恋である。心臓の奥から熱い息吹がこみあげている。このような気持ちは生れて初めてである。また、口に割り箸をくわえて打つ電動タイプの練習も積極的にこなすようになった。今までの小野雪子に出会わぬ日々が無意味なものにも思えるようになった。
「将来は電動タイプで良い絵をたくさん描いて、売って、もうけて、妻との生活費にあてたい。そして、雪子に毎日やさしくされて、介護も受けて」と内心思った。小野雪子は思いやりがあふれて、人の言う事は何でも聞いてくれるマリア様みたいな女性だと思うようになった。期待感が独り歩きして、秦野幸雄独特の「小野雪子像」も作り上げていた。実際の小野雪子のことはまだ知らないわけだが。
「今は絵も売れる時代。タイプ絵も良いものを描けば、売れるようになる」と興奮気味に言い出し始めた。最初の「好き」という気持ちは次第にマイホーム作りと、雪子に愛される期待感に変わっていった。目はらんらんと輝き、その活気は多くの職員たちにも認められた。ただし、彼の心の中はだれも知らない。
「高田勝男は越後の雪女を面白く変える童話をのんびりと書いている。でも、秦野はタイプ絵を精力的にこなしているな。これがオリンピック練習ならば、秦野は金メダルを取れるな」と冗談を言う職員もいた。多くは秦野のがんばりを好意的に見ている。でも、事情は分からないなりにも、心配の目で見る職員が二人出るようになった。木村真之介と、比嘉美波である。木村は学生運動の例から、高揚感から何かのトラブルで失敗し、悲しい事になり勝ちが多いことを知っており、比嘉は琉球人として差別されてきた経験からの直感で変に感じているわけである。二人は暇さえあれば、秦野の様子をうかがうようになり、木村から比嘉に少し話があると言って、外に出て道端で
「比嘉さんも秦野君のことを心配しているようだね。わからないなりにも、僕もだ。どうも彼はおかしい」と木村が切り出す。
「その通りよ。彼はもともとがんばり屋だけど、落ち着いた話し方だった。ところが、三ヶ月くらい前から落ち着かない話し方でしょ。貴ノ花の話をしても、チンプンカンプンな返事ばかり。変だわ」
「かと言って、悩みもなさそうだし。悩みがある時は大体は落ち込むからわかるが。悩みの逆みたいな感じだね」
「ひょっとして...。証拠はないけれど、」。
木村は少し間を置いて
「比嘉さんの言いたいことがわかった。あれだね」
「そうよ。だれかを好きに...」
「ならば、先が心配だ。その件で差別される人たちの声も聞いたし。でも、たしかに、それを決め付ける証拠もないし、仮にそうだとしても、相手は誰かも判らない。下手に話し回れる問題てもないし。われわれとしては、手の打ちようもないわけだ...」
二人共、首をうなだれた。
「求めよ、さらば与えられん」の言葉を意識しつつ、脳裏に恋文書きの練習を何度も秦野はするようになった。天気が晴れの気持ちの良い日、車イスに乗った姿勢から、窓ぎわの秦野専用の勉強机に向かい、割り箸を口にくわえて、電動カタカナ・タイプライターに向かい、一文字一文字かみしめるように、以下を書いた。誰も書く文は見なかった。一時間半はかかっただろうか。ものすごい努力である。書き上げて、全身が疲れ、秦野特有の全身硬直はさらに強くなった。使えないのに、手足は木みたいになり、痛みにも似た硬直感に襲われた。実に苦しい。そして、職務中の小野雪子に渡した。誤字消去の@マークが目立つ文である。
「アカトンボガ ト@ビカウ マイニチ デス。ワタク@シハ コ@ノタビ、オノ ユキ@コ サマニ モウ@シアゲタイ コ@トガ アリ、テガミヲ カ@@キマス。オノ ユキコ サマハ マ:@リア サマノ ヨウニ ヤサ@シクテ、ウ@@ツクシイ デス。「オカアサマニ テガミ。エ@ライ ワネ」と ヤサシキ コエヲ カケラレテ@ カラ、ユキコ サマノ コト バカ@リ カンガエ@@テ イマス。ユ:@キコ サマガ スキ デス。モノスゴ@@ク スキ デス。アイ シテイ@マス。オヘンジ ク@ダサイ。」
昼間は暑くても、日暮れが早い9月である。あたりは夕焼け。スズムシやコオロギが悲しげにないていた。
あの日以来、秦野幸雄は小野雪子のことばかり想うようになっている。テレビを見ている時も、みなで歌を聞いている時も。職員に「今朝は体の調子はどう?」と聞かれても、返事に時間がかかることもある。恋である。心臓の奥から熱い息吹がこみあげている。このような気持ちは生れて初めてである。また、口に割り箸をくわえて打つ電動タイプの練習も積極的にこなすようになった。今までの小野雪子に出会わぬ日々が無意味なものにも思えるようになった。
「将来は電動タイプで良い絵をたくさん描いて、売って、もうけて、妻との生活費にあてたい。そして、雪子に毎日やさしくされて、介護も受けて」と内心思った。小野雪子は思いやりがあふれて、人の言う事は何でも聞いてくれるマリア様みたいな女性だと思うようになった。期待感が独り歩きして、秦野幸雄独特の「小野雪子像」も作り上げていた。実際の小野雪子のことはまだ知らないわけだが。
「今は絵も売れる時代。タイプ絵も良いものを描けば、売れるようになる」と興奮気味に言い出し始めた。最初の「好き」という気持ちは次第にマイホーム作りと、雪子に愛される期待感に変わっていった。目はらんらんと輝き、その活気は多くの職員たちにも認められた。ただし、彼の心の中はだれも知らない。
「高田勝男は越後の雪女を面白く変える童話をのんびりと書いている。でも、秦野はタイプ絵を精力的にこなしているな。これがオリンピック練習ならば、秦野は金メダルを取れるな」と冗談を言う職員もいた。多くは秦野のがんばりを好意的に見ている。でも、事情は分からないなりにも、心配の目で見る職員が二人出るようになった。木村真之介と、比嘉美波である。木村は学生運動の例から、高揚感から何かのトラブルで失敗し、悲しい事になり勝ちが多いことを知っており、比嘉は琉球人として差別されてきた経験からの直感で変に感じているわけである。二人は暇さえあれば、秦野の様子をうかがうようになり、木村から比嘉に少し話があると言って、外に出て道端で
「比嘉さんも秦野君のことを心配しているようだね。わからないなりにも、僕もだ。どうも彼はおかしい」と木村が切り出す。
「その通りよ。彼はもともとがんばり屋だけど、落ち着いた話し方だった。ところが、三ヶ月くらい前から落ち着かない話し方でしょ。貴ノ花の話をしても、チンプンカンプンな返事ばかり。変だわ」
「かと言って、悩みもなさそうだし。悩みがある時は大体は落ち込むからわかるが。悩みの逆みたいな感じだね」
「ひょっとして...。証拠はないけれど、」。
木村は少し間を置いて
「比嘉さんの言いたいことがわかった。あれだね」
「そうよ。だれかを好きに...」
「ならば、先が心配だ。その件で差別される人たちの声も聞いたし。でも、たしかに、それを決め付ける証拠もないし、仮にそうだとしても、相手は誰かも判らない。下手に話し回れる問題てもないし。われわれとしては、手の打ちようもないわけだ...」
二人共、首をうなだれた。
「求めよ、さらば与えられん」の言葉を意識しつつ、脳裏に恋文書きの練習を何度も秦野はするようになった。天気が晴れの気持ちの良い日、車イスに乗った姿勢から、窓ぎわの秦野専用の勉強机に向かい、割り箸を口にくわえて、電動カタカナ・タイプライターに向かい、一文字一文字かみしめるように、以下を書いた。誰も書く文は見なかった。一時間半はかかっただろうか。ものすごい努力である。書き上げて、全身が疲れ、秦野特有の全身硬直はさらに強くなった。使えないのに、手足は木みたいになり、痛みにも似た硬直感に襲われた。実に苦しい。そして、職務中の小野雪子に渡した。誤字消去の@マークが目立つ文である。
「アカトンボガ ト@ビカウ マイニチ デス。ワタク@シハ コ@ノタビ、オノ ユキ@コ サマニ モウ@シアゲタイ コ@トガ アリ、テガミヲ カ@@キマス。オノ ユキコ サマハ マ:@リア サマノ ヨウニ ヤサ@シクテ、ウ@@ツクシイ デス。「オカアサマニ テガミ。エ@ライ ワネ」と ヤサシキ コエヲ カケラレテ@ カラ、ユキコ サマノ コト バカ@リ カンガエ@@テ イマス。ユ:@キコ サマガ スキ デス。モノスゴ@@ク スキ デス。アイ シテイ@マス。オヘンジ ク@ダサイ。」
昼間は暑くても、日暮れが早い9月である。あたりは夕焼け。スズムシやコオロギが悲しげにないていた。