歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈文研 寺院創建年代を「雨落溝」の列数から推定 川原寺は7世紀中頃

2010年06月19日 | Weblog
 奈良文化財研究所の青木敬研究員が、6~8世紀の飛鳥、奈良時代の寺院や宮殿の築造年代について、年代が新しくなるにつれて石組みの排水路「雨落溝」の石列数が減ること、また、側石と底石の大きさを比べると7世紀中ごろまでは側石が大きいが、7世紀後半以降は同じ大きさになるということに着目し、構造変化から導き出すユニークな推定方法を提唱した。
 明日香村の石神遺跡の発掘を担当した際、雨落溝の幅が他の遺跡と比べて広いことに気づき、奈良県の古代建造物を中心に雨落溝の形態を比較した。
 その結果、雨落溝の底石の列数が、6世紀末の飛鳥寺中金堂(明日香村)で5列▽7世紀中ごろの石神遺跡が4列▽7世紀後半の飛鳥浄御原宮跡が3列▽8世紀前半の興福寺中金堂(奈良市)が2列-など、年代が新しくなるほど減っていくことを突き止めた。
 それによると、築造年代が謎とされてきた明日香村の川原寺は、底石が4列だったことから創建は7世紀中ごろと推定。斉明天皇の川原宮(655~656年)の跡地が整地されてまもなく、寺が建立されたとする説を補強することになったとする。
[参考:産経新聞]

(備考)日本書紀によると、
 孝徳天皇白雉4年(653) 6月 天皇、旻法師命終せぬと聞して、(略)、遂に法師のために、画工狛竪部子麻呂・鯽魚戸直等に命せて、多に仏菩薩の像を造る。川原寺に安置す。(或本に云はく、山田寺に在すといふ。)
 天武2年(673) 3月 是の月に、書生(てかき)を聚へて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。

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 2009.2.24木津川市・高麗寺 講堂基壇の外装は極めて珍しい三重構造
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奈良・平城宮跡 当時の役人も肉食 寄生虫検出により裏づけ

2010年06月19日 | Weblog
 奈良文化財研究所が17日、奈良時代の平城京(710-784)で政治の中枢だった平城宮跡東方官衙(かんが)地区で昨年見つかった土壌化した糞便(ふんべん)を分析したところ、牛や豚の肉を食べると感染する寄生虫の卵を検出し、当時の人々が肉食をしていたことを確認したと発表した。当時の肉食が科学的に裏付けられたのは初めて。
 奈良時代は仏教思想の影響で、肉食が禁忌だったとされるが、一方で肉食禁止令が度々出された記録があったり、イノシシ肉を献上した木簡も出土したりしていることから、実際には肉食が広まっていたと推察されていた。
 遺構があったのは都を警備する「衛府(えふ)」があったとされる区画。昨年8月に直径50~95cm前後、深さ20cm(当初は推定1m)の6基の穴を見つけ、6基の穴全部に籌木(ちゅうぎ、トイレットペーパーの代わりに使った細長い木片)が入っており、計279点出土した。原形をとどめた人の便も見つかった。
 今回の発見と同様の寄生虫卵は鴻臚館跡(福岡市、8世紀)や秋田城跡(秋田市)の遺構でも検出されているが「肉食をする外国人が使ったため」との説があった。同研究所は「遺構は衛府とみられる区画にあることから、外国人の可能性は低い」とみている。また、宮内に外国人が登用されていた可能性もあるとの異見もある。
[参考:産経新聞、朝日新聞、日経新聞、奈良新聞、読売新聞、共同通信]

 古代日本人も牛豚食用 奈良時代、平城宮の役人(共同通信) - goo ニュース
 天平役人が禁断の肉食…平城宮トイレ穴出土(読売新聞) - goo ニュース

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 2008.10.21 秋田城跡・水洗厠舎跡 「古代の水洗トイレ」復元工事着工
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慶州平野内・塔洞 2千年前の新羅建国勢力の首長の木棺墓を発掘か? 

2010年06月19日 | Weblog
 韓国文化財保護財団文化財調査연단は18日、慶州平野内塔洞(경주평야내 탑동)で小規模一戸建て住宅新築予定地を発掘調査した結果、木材が自然炭化する過程で炭のように変わった木棺の痕跡や多くの遺物を発掘したと発表した。紀元前1世紀中~後半に作られたと見られる首長級人物の木棺墓とみられる。慶州平野でこのような木棺墓が発見されたのは初めて。
 これで新羅が胎動した場所は、「慶州平野一帯辺りではなく、舍羅里130号墳や朝陽洞38号墳と同じ大型木棺墓が発見された慶州郊外周辺地域である可能性が高い」とする考古学界の主張が弱くなるものと見られる。
 木棺を埋めた墓壙は、長方形(長さ296㎝、幅144㎝)で東西方向に軸を設けていた。木棺は発見された痕跡から見ると、平面形状は「ㅍ」字形で大きさは長さ196㎝、幅84㎝であった。
 木棺内部から漆鞘銅剣(칠초동검)と漆鞘鉄剣(칠초철검)、刀の柄の剣把頭飾(검파두식)、青銅釧(청동 팔찌)、首飾り、そして死体の顔を隠すのに使ったものと推定される漆器扇(부채)などの遺物が大量に発見された。また、墓壙と木棺を覆った充填土からは紀元前2~1世紀頃この地域を代表する土器の組合式牛角形把手附壺(우각형 파수부호)、両耳附壷(양이부호)、袋状壺(주머니호)や、北方系遺物と評される鉄鍑(철복)、鉄帽(철모)、轡(재갈)、腰帯の虎形帯鉤(호형대구)、炭化した跡にだけ残った漆器(칠기)も多量に発掘された。
 これら遺物中、カエル装飾が慶北氷川入室里遺跡(입실리 유적)に次いで2番目に確認された。
 この墓は朴赫居世(박혁거세)が新羅を建国した紀元前57年と近接した紀元前1世紀中~後半に作られたと推定される。
 今回出土した死体顔面を覆う扇の事例は、昌原茶戸里遺跡(다호리 유적)1号木棺墓で初めて確認されて以来、慶北星州郡礼山里遺跡(예산리 유적)40号墳、金海市鳳凰洞遺跡(봉황동 유적)、そして慶北慶山市押梁面遺跡(압량면 유적)94号木棺墓から発見されており、今回の慶州発掘事例まで総合すると、このような独特の埋葬風習が紀元前後頃今の慶尚道地域全域にかけて流行したという事実を後押しした。
[参考:聨合ニュース]

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 2008.11.28慶尚南道昌原市北面・茶戸里遺跡 出土品から現れた新しい発見!

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ツタンカーメンの即位年代を放射性炭素による年代測定法で特定

2010年06月18日 | Weblog
 英オックスフォード大などの国際考古学チームは、古代エジプト王ツタンカーメンが王位に就いたのは紀元前1353~31年ごろと、放射性炭素による年代測定法でこれまでより明確に特定したと18日発売の米科学誌サイエンスに発表した。
[参考:時事通信]

ツタンカーメン即位年代を特定=放射性炭素の測定法で―英考古学者ら(時事通信) - goo ニュース

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 2010.2.17ツタンカーメンの母は父アメンホテプ4世の姉妹
 2008.8.7ツタンカーメン王に娘? 胎児ミイラをDNA鑑定へ


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忠州楼岩里古墳群 6世紀新羅土器が出土

2010年06月17日 | Weblog
 国立中原文化財研究所は17日、2008年に続き今年2次発掘が進行中の楼岩里古墳群(충주 누암리고분군、史跡463号)で横穴式石室墳2基と横口式石槨墓2基から蓋と短脚高杯、台附短頚壺等土器類が出土したと発表した。
 楼岩里古墳群は、6世紀中葉に中原地域に進出して地方行政区域の国原小京を設置した新羅系支配層の集団墓として知られている。
 このうち、穴式石室墳2基はともに南側に羨道を設ける地上式で封土が崩れることを防ぐために、封墳上には溝を、下には1~2段の護石を設置したのが確認された。また石室の中には追加埋葬のための屍床が設置されていた。
 研究所はこの古墳群から出土・確認された遺物が6世紀中後半に中原地域に進出した新羅の文化像を把握できる貴重な資料と評価している。
 18日(金)午前11時から発掘調査成果現場説明会が開かれる。
[参考:聨合ニュース]

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 2009.7.28忠州下九岩里 新羅古墳群を発掘中、現地説明会を実施
 2009.6.11忠州下九岩里 新羅古墳群の発掘を計画
 2008.10.5忠州楼岩里古墳群を発掘 「本軌道」
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枚方市・養父遺跡 奈良時代の大型建物跡が出土 古代「郷」の役所跡?

2010年06月16日 | Weblog
 枚方市教委と市文化財研究調査会が15日、同市養父東町の養父遺跡から、奈良時代(8世紀前半~中頃)の大型建物跡2棟と倉庫跡1棟が出土したと発表した。規模や真北を意識して並んで建てられていることから、古代の「郷(ごう)」(注1)の役所跡の一部にあたる可能性が高いとし、今回の調査場所の南方に役所の中心があったのではないかとみている。
 古墳~鎌倉時代の建物跡13棟が出土したが、土器の年代などから奈良時代の建物跡を特定した。2棟は柱穴の一辺が80cmを超える大型だった。
 1棟は、計8間に仕切られる南北4・2m、東西7・8m大型の建物跡で、倉庫跡とみられる掘立柱建物は南北4・8m、東西4・8mの規模とみられる。
 また、墳丘が削られてなくなった古墳時代後期(6世紀後半)の円墳(直径約22m)や、方墳の一部も見つかった。
 現地説明会が19日(土)午後1、2、3時の3回行われる。

(注1) 現在の同市の大部分と交野市全域、寝屋川市の一部にあたる「交野郡」にあった六つの郷の一つ。
[参考:読売新聞、毎日新聞、産経新聞]



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奈良市・興福寺 南大門跡から出土した鎮壇具の壺から魚の骨が見つかる

2010年06月15日 | Weblog
 奈良文化財研究所が15日、興福寺の南大門跡で出土した奈良時代(8世紀前半)の地鎮に使う「鎮壇具」の須恵器の壺から魚の骨が見つかったと発表した。鎮壇具に魚の骨が入っていた例は初めてという。
 昨年11月、南大門跡の基壇(東西31m、南北16.6m)の深さ約50cmの地中から灰色の須恵器の壺(口径18.7cm、高さ15.5cm)が出土した。蓋はなく土が詰まっていた。エックス線撮影などで和同開珎5枚とガラス玉13個を確認していた。今年1月に土砂を取り出したところ、最下部に納められた和同開珎とガラス玉などの上に、魚の頭部の骨6点(長さ最大約1cm)と左右の胸鰭(ビレ)2点(長さ最大約1.5cm)、鱗(うろこ)が見つかった。いずれも頭部近くであることから、何らかの呪術性を期待して埋納した可能性を示している。魚は形状などからフサカサゴ科(注1)の一種と判明。背骨はなく、全長16~18cmの魚の頭部だけを納めたらしい。
 藤原京や平城京(7~8世紀)の鎮壇具は16例出土しているが、魚は見つかっていない。仏教式の地鎮で金や銀、五穀を埋納することはあるが魚の骨を使うことはない。仏教儀礼などを記した経典「陀羅尼(だらに)集経(じっきょう)」などにも魚を鎮壇具とする記述はない。用途や意図は不明だが、例えば、「山の神にオコゼ(注2)を供える」という陰陽師による魔除けなど呪術的な要素(注3)が感じられるとしている。
[参考:共同通信、朝日新聞、読売新聞] 


奈良、鎮壇具のつぼから魚の骨 呪術か、興福寺の南大門跡(共同通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.10興福寺・南大門跡から地鎮に使う鎮壇具が出土
 興福寺

(注1) フサカサゴ科には、イソカサゴ属、オニカサゴ属、カサゴ属、キチジ属、セトミノカサゴ属などがある。
(注2) オコゼはカサゴ目、カサゴ亜目、オニオコゼ科、オニオコゼ属と続く。
(注3) オコゼを山神に捧げて祈るあるいは何かを期待する話は、「山神とオコゼ」/柳田国男、「山神オコゼ魚を好むということ」/南方熊楠にまとめられており、古代からそのようなことがあったことを指摘している。
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慶北高霊郡・池山洞古墳群 封墳だけでも700基以上を確認、古墳は全体で約1万基と推定

2010年06月13日 | Weblog
 高霊郡が(財)大東文化財研究院に依頼して、「池山洞古墳群(지산동 고분군)」の地表調査を昨年5月から今年4月末まで実施し、肉眼で見える封土が残る三国時代古墳だけでも704基を確認した。封墳の直径が40m以上 1基、30~40m 5基、25m~30m 6基、20~25m 7基、15m~20m 18基、10~15m 85基などであった。
 これまで、正確な調査なしに漠然と200~600基程度の古墳があるとみられてきた。1910年代に日本人研究者の今西龍と黒板勝美等が初めて調査して、分布する古墳数が「100基以上」という報告がされ、1930年代に同じ日本人考古学者の斉藤忠は「600基余り」、1942年に朝鮮総督府朝鮮宝物古蹟調査報告では「200基余り」、1963年にこの古墳群を史跡第79号として指定する当時には、相対的に大きい封土墳70基だけを対象とし、1994年国立大邱博物館調査では「158基」と報告された。
 大伽耶時代の古墳が密集する同古墳群は、一つの封墳に数人を埋葬する方式を採用している。今回の精密地表調査は調査地域を史跡指定範囲の封土墳を対象にしており、既に封墳が亡失して埋葬主体部だけが残ったものがはるかに多く、全体を発掘すれば1万基を上回る古墳があると推定した。その結果、池山洞古墳群は韓半島最大の三国時代共同墓地であることが確認された。
 これらは、最近完成された「高霊池山洞古墳群総合整備計画樹立のための精密地表調査結果報告書」を通して明らかになった。
[参考:聨合ニュース]


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蒲郡市・上ノ郷城跡 鉄砲の弾が再び見つかる

2010年06月11日 | Weblog
 蒲郡市教委が発掘調査中の上ノ郷城跡で、出入り口の石段近くの石垣の中から、弾丸1個が再び出土した。昨年2月に次いで2個目となる。
 直径が約1cmで、全体が真っ白な錆に覆われ、弾丸が純度の高い鉛製であることを示している。
 同城は今川方の主要豪族である鵜殿氏の本拠地で、支配地を広げようとしていた徳川方が大軍を率いて攻めたが失敗。そこで、1562(永禄5)年に家康自らが陣頭指揮し、忍者の甲賀衆を忍び込ませて火を放ち、攻め滅ぼしたことが記録に残る。
[参考:東日新聞]

過去の関連ニュース・情報
■2009.2.18上ノ郷城跡の第3次発掘調査で、徳川家康軍のものとみられる鉄砲の弾(たま)1個が見つかった。東三河では戦国後期の弾が長篠城跡や設楽城跡から見つかっているが、鉄砲伝来間もない時期のものは珍しいという。
 弾は、遺構面から10cmほどの深さの位置で発見され直径13cm、重さ20g。砂型から鋳出したことを物語る筋が1本通っていた。全体が真っ白な錆びに覆われており、鉛分の純度が高い。
 同城の主の鵜殿氏が今川方だったことから、勢力拡大で東進していた徳川家康に攻められ、陥落したのが1562(永禄5)年。種子島に鉄砲が伝来したのが、天文12年(1543)8月だから、わずか19年後に使用されたことになる。[参考:東日新聞]
上ノ郷城跡
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飯塚市・山王山古墳 石室に装飾を確認、馬具も出土

2010年06月10日 | Weblog
 飯塚市教委は9日、同市西徳前の山王山古墳の横穴式石室から円形に描かれた装飾が見つかり、装飾古墳であることがわかったと発表した。存在は江戸時代から知られていたが、これまで詳しく調査していなかった。
 市教委によると、市内で装飾が確認されたのは川島古墳、城腰横穴墓に続いて3例目。
 山王山古墳は直径約18mの円墳で、石室は前室と後室で構成されている。このうち、後室は高さと奥行きが2・4m、幅2・2mで、室内の壁面には直径約15cmの円形模様が14個あり、硬い物体で突くようにして描く「敲打(こうだ)技法」で模様を描いたとみている。この技法は有明海沿岸や筑後川流域の古墳で確認されているが、遠賀川流域では初めて見つかった。室内からはガラス玉や金銀の耳環、馬具なども出土した。古墳時代後期(6世紀末~7世紀)の有力者の墓とみられるという。
 現地説明会が12日午前10時~午後1時に開かれる。出土した馬具やガラス玉など約30点を展示し、調査に当たった職員が解説する。飯塚市横田の飯塚第2体育館駐車場集合。古墳は14日以降に埋め戻す。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
  飯塚市・川島古墳群5号墳 6世紀後半築造の横穴式石室が見つかる



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京都府京丹波町・井脇城跡 「曲輪」跡の土塁が見つかる?

2010年06月10日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターは9日、井脇城跡(船井郡京丹波町井脇井壁谷)で土塁や室町時代後期の土器の一部が見つかったと発表した。周囲に土塁がめぐる曲輪の全容が明らかになるとしている。
 丹波綾部道路の建設に伴い、昨年度から調査を実施していた。標高約300mの城跡の中心部から東側の3地区を調査。そのうち最も南側の地区(約1400㎡)に人為的に作られた南北16m、東西18mの平坦地があり、西側の縁にコの字形の土塁(高さ約80cm、最大幅2・5m)が見つかった。また、東側斜面から室町時代後期(16世紀前半)の土器のすり鉢の一部が出土。この平坦地は見晴らしもよい場所であることから、「曲輪」であったとみられる。
 今回の調査で室町時代後期の築城とみられる。近くの三宮地域には山内一豊の祖父、久豊の居城跡もあり、井脇城やその周辺の山城は三宮を守るための見張りなどが置かれた施設であった可能性があるという。
 現地説明会が12日(土)午後2~3時に開かれる。集合場所は井脇公民館。
[参考:毎日新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]



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大津市・真野廃寺跡 白鳳期の特殊形式の瓦窯を発掘

2010年06月10日 | Weblog
 大津市教委が9日、道路建設に伴い昨年12月から約800㎡を初めて発掘調査していた真野廃寺跡(同市真野一丁目・三丁目)で、白鳳時代(7世紀後半)に瓦を焼いた窯跡が見つかったと発表した。「登り窯」と「平窯」の要素を兼ね備えた珍しい形式の窯で、堂舎に葺く瓦の工房だったとみられる。登り窯から平窯に変遷したとされる瓦窯(がよう)の歴史を探るうえで貴重な発見であり、近くに古代の有力豪族が建てたとされる真野廃寺があったことを裏付ける資料になるとしている。また、古墳時代後期の古墳2基が見つかった。
 真野廃寺は、窯跡から北200m付近で南北方向を向き、柱を支えた巨大な礎石が見つかっており、6世紀中頃から7世紀前半にかけての白鳳時代の大規模な寺院跡として知られているが、文献に記載がなく、堂舎の配置など実態は不明だがこれまで本格的な調査は行われていなかった。
 窯跡は全長約7m、幅約1・4m、高低差2mで、寺の中枢部の推定地から南約200mで見つかった。6世紀初めの円墳(直径約17m)の傾斜を利用して構築。「焚き口」を墳丘の裾に築き、墳丘の斜面をトンネル状に掘って瓦の焼成部を造っていたが、焼成部の奥は天井部分が粘土や瓦で作られており、途中で突き抜けて地上に口が開いた平窯の形式で、屋根などを別に備えたらしい。
 壁面の裏込めとして積まれた瓦には、白鳳期の特徴である格子目の模様があったが、この窯で焼かれた瓦かどうかは不明。また、検出した瓦の大半は平瓦や丸瓦で、文様から制作年代や特色を探りやすい軒丸瓦などは出土していない。
 また、窯跡の約30m北には、南北に並ぶ古墳時代後期の円墳2基(直径約17mと26m)が見つかった。6世紀初め頃の円墳と見られており、このうち直径26mの円墳からは木棺(長さ3・6m、幅約1m)に塗られた朱色のベンガラ跡や、刀と見られる鉄製品(長さ約70cm)、20個以上のガラス玉などの副葬品が見つかった。
 ほかに弥生時代の土器や碧玉製の管玉、古墳時代の土坑墓とみられる跡、鎌倉時代の集落の溝も出土した。
 現地説明会は12日午後1時半に開かれる。
[参考:読売新聞、BBCびわ湖放送、NHK滋賀、毎日新聞、中日新聞、朝日新聞]


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葛城市・当麻寺 西塔の創建は飛鳥時代?

2010年06月08日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所の調査で7日、葛城市の当麻寺の東西両塔(国宝)のうち、西塔の創建が定説の平安時代より古く、寺の創建と同じ飛鳥時代まで遡る可能性があることが分かった。塔のそばから7世紀後半の瓦が出土したためで、現在の西塔は平安時代に再建されたものである可能性があるという。
 同研究所が西塔の西側と南側計40㎡を発掘したところ、南東部から江戸時代に掘られたとみられる廃棄坑が検出。廃棄坑からは奈良~江戸時代の瓦に紛れ、寺が現在地に創建された、680年代の白鳳年間の軒丸瓦が含まれていた。
 建築様式などから東塔は750年頃の奈良中期、西塔は平安前期に創建されたとされてきた。
 調査地からは9~10世紀の土器が埋められた柱穴約30基も見つかった。西塔を建設した際の足場跡と考えられ、現在の西塔が平安時代に建てられたことを裏付けた。
 西塔は心柱が八角形なのに対し心礎に掘られた臍(ほぞ)は円形で、心柱は心礎の中心から十数cm外れている。
 明治時代の建築史学の研究者、足立康氏(1898-1941)は現在の西塔は再建されたものだとする再建説を唱えていた。
[参考:産経新聞]
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鹿嶋市・塚原館跡 水槽のような水溜遺構が出土

2010年06月08日 | Weblog
 鹿嶋市は7日、戦国時代に活躍した剣の達人、塚原卜伝(1489-1571)の居城跡とみられる「塚原館跡」(塚原城跡、同市沼尾)から粘土張りの大きな水槽のような遺構が発掘されたと発表した。
 遺構は幅約2・2m、奥行き約2・4m、深さ約0・75mの大きさで、土を掘ったところに厚さ約10cmの粘土を張り付けている。生活用水などをためる水溜と考えられるという。
 壊されたかまどのような跡や、燃えた板材なども新たに見つかった。
 市教育委員会は13日午後1時半から、発掘現場を一般公開し調査の成果を報告する説明会を開催する。
[参考:産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.23塚原館跡 12/23一般公開および現地説明会

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御所市・巨勢山古墳群 ゴルフ場拡張工事で少なくとも4基の円墳を破壊

2010年06月07日 | Weblog
 御所市の国史跡、巨勢山古墳群(5~6世紀)で、隣接する秋津ゴルフ場の拡張工事に伴って、文化財保護法に基づく文化庁の許可を受けずに一部の古墳、少なくとも4基が破壊されていたことがわかった。市民からの通報で発覚した。同庁などはゴルフ場運営会社「秋津原」(同市)に古墳を元に戻すよう指導した。市教委と文化庁は6月中に復旧委員会を立ち上げ、本格的な回復方法を検討する。
 同古墳群は、市南部の東西約3.3km、南北約3.5kmの丘陵地帯に約700基の小古墳が集中し、国内最大級の規模という。地元有力豪族の葛城氏や巨勢氏との関連が指摘されている。02年12月に国の史跡に指定された。
 ゴルフ場の「秋津原ゴルフクラブ」は、昨年11月、打ちっ放しの練習場を拡張するため、所有地である史跡指定地の山の斜面を約5400㎡にわたって崩した。この際、直径十数mの円墳4基(170~173号墳)の一部を壊し、2基は半壊していた。4基とも未調査だった。
 通報を受けた市教委は同月26日、工事中止命令を出し、斜面の崩落を防ぐため、防護ネットを張るなどの仮復旧工事を今年5月末までに実施した。
 ゴルフ場側は「重要な古墳だとは知っていたが、一昨年4月に経営者が代わり、前の経営者から工事ができる部分がどこかを引き継いでおらず、認識が曖昧だった」などと曖昧な話しをしている。
 文化庁は「論外の行為。古墳を元に戻すよう求めた」としている。
[参考:読売新聞、時事通信、朝日新聞、テレビ朝日、NHK、FNN、産経新聞、毎日新聞]

2010.6.9 毎日新聞は、9日下記のように報じている。
 奈良県建築課は、昨年12月に御所市から連絡を受けてゴルフ場側から事情を聴き、その後数回にわたり指導したが、現在も申請していないという。ゴルフ場側は、文化財保護法に基づく現状変更許可申請も文化庁に出していないことが分かっている。[参考:毎日新聞]

国内最大級の古墳群壊す…ゴルフ場拡張工事(読売新聞) - goo ニュース
ゴルフ場拡張工事で古墳損壊 奈良・御所の国史跡(朝日新聞) - goo ニュース
ゴルフ場工事で古墳4基損壊=国史跡、無許可で掘削―奈良・巨勢山(時事通信) - goo ニュース
ゴルフ場拡張で国史跡の古墳破壊 奈良、許可得ず工事(共同通信) - goo ニュース
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