奈良県立橿原考古学研究所の調査で7日、葛城市の当麻寺の東西両塔(国宝)のうち、西塔の創建が定説の平安時代より古く、寺の創建と同じ飛鳥時代まで遡る可能性があることが分かった。塔のそばから7世紀後半の瓦が出土したためで、現在の西塔は平安時代に再建されたものである可能性があるという。
同研究所が西塔の西側と南側計40㎡を発掘したところ、南東部から江戸時代に掘られたとみられる廃棄坑が検出。廃棄坑からは奈良~江戸時代の瓦に紛れ、寺が現在地に創建された、680年代の白鳳年間の軒丸瓦が含まれていた。
建築様式などから東塔は750年頃の奈良中期、西塔は平安前期に創建されたとされてきた。
調査地からは9~10世紀の土器が埋められた柱穴約30基も見つかった。西塔を建設した際の足場跡と考えられ、現在の西塔が平安時代に建てられたことを裏付けた。
西塔は心柱が八角形なのに対し心礎に掘られた臍(ほぞ)は円形で、心柱は心礎の中心から十数cm外れている。
明治時代の建築史学の研究者、足立康氏(1898-1941)は現在の西塔は再建されたものだとする再建説を唱えていた。
[参考:産経新聞]
同研究所が西塔の西側と南側計40㎡を発掘したところ、南東部から江戸時代に掘られたとみられる廃棄坑が検出。廃棄坑からは奈良~江戸時代の瓦に紛れ、寺が現在地に創建された、680年代の白鳳年間の軒丸瓦が含まれていた。
建築様式などから東塔は750年頃の奈良中期、西塔は平安前期に創建されたとされてきた。
調査地からは9~10世紀の土器が埋められた柱穴約30基も見つかった。西塔を建設した際の足場跡と考えられ、現在の西塔が平安時代に建てられたことを裏付けた。
西塔は心柱が八角形なのに対し心礎に掘られた臍(ほぞ)は円形で、心柱は心礎の中心から十数cm外れている。
明治時代の建築史学の研究者、足立康氏(1898-1941)は現在の西塔は再建されたものだとする再建説を唱えていた。
[参考:産経新聞]
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