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韓国・忠州下九岩里 新羅古墳群の発掘を計画

2009年06月11日 | Weblog
 国立中原文化財研究所は10日、新羅時代最大遺跡地の1つである可金面(가금면)下九岩里古墳群(하구암리 고분군)一帯の分布状況に対する精密実態調査とGPS測量を完了させ、本格的な発掘を始めることを明らかにした。
 2007年12月設立された国立中原文化財研究所が発掘調査を始めるのは今回が五回目。
 下九岩里古墳群は、最小8区域にかけて中大型級石室墳を含む約400基の古墳が分布していて、近隣の楼岩里古墳群とともに慶州を除く新羅時代最大規模の古墳群と知られる。
 また新羅が忠州に小京を設置して中央の貴族らをこちらに移住させたという歴史記録に照らして、6世紀中頃急変する国際秩序の中で新羅の歩みを調べることができる重要な遺跡と評価されている。
[参考:聯合ニュース]

 新羅墓様式は、原三国時代は土壙墓、4~6世紀前半は積石木槨墳、6世紀中葉後統一時代までは横穴式石室墓等に区分されている。
 積石木槨墳では金冠がたくさん出土した。 金冠塚、天馬塚、黄南大塚がこの様式を取っている。また、横穴式石室墓では梁山夫婦塚、慶州雙床塚が有名だ。
 新羅系墓は主勢力圏だった慶州一帯と慶尚道地方に集中的に分布している。 しかし慶州から1千里以上離れた忠州市可金面一帯に新羅系大型横穴式石室墓が少なくとも数百ヶ所存在している。
 韓半島東南の側に位置していた新羅は6世紀中葉真興王対に達して、唐外交関係が成功を収めて、また花徒が殉教者精神で戦争を遂行して国力が大きく伸張した。
 真興王はこれを土台に百済を韓半島西南側隅に押し込め、また高句麗を北に押し上げて、漢江流域まで進出した。
 領土が広くなるや新羅は占領地域を統治するために「5小京」を設置する。
 忠州楼岩里古墳群および下九岩里古墳群はこの時期に集中的に造成された。

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