歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

京畿烏山 先月発見された朝鮮時代前期の女性ミイラそばから、別の女性ミーラを発掘

2010年06月07日 | Weblog
 今年の5月13日に聨合ニュースなどで「1500年代中頃の朝鮮時代官吏の女性のミイラを発掘」と報じられた。その後も調査が行われ、今月6日にその女性ミーラのそばから2番目の女性ミーラが発掘されたと報じられた。
 灰隔墓(회격묘)(注1)内の内棺蓋には「儒人○○李氏之柩」と書かれた銘旌が発見され、官職品階により9品の夫人(注2)とみられる。前回発掘した女性ミーラよりは20~30年ほど先んじて10代後半~20代始めに妊娠中に死亡したミーラであるらしいと推定された。
 近隣にある夫の墓を調査した結果、夫の死体は棺まで全部腐って保存されなかった。
 ミーラ発掘過程ではチョゴリ、腰チマ(スカート)など錦織服の遺物がたくさん発見された。
 歴史学者によると、正9品からある1品階上がるのに平均450日がかかるので、従6品まで6品階を上がろうとすると通常7年ほどかかる。したがって、二人のミーラの死亡時期は最小7年の差があるという。
[参考:聨合ニュース]
 2010.5.14 京畿烏山 16世紀中頃朝鮮時代前期の服飾が完璧な、正6品官吏一族夫人のミイラを発掘

(注1) 灰隔墓 (회격묘)は、5月13日の聨合ニュースなどは灰槨墓(회곽묘)と記されていた。
(注2) 文武官の妻の官位: (正従1位)貞敬夫人、(正従2位)貞夫人、(正3位)淑夫人、(従3位)淑夫人、(正従4位)令人、(正従5位)恭人、(正従6位)宜人、(正従7位)安人、(正従8位)端人、(正従9位)儒(孺)人
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佐賀市・三重津海軍所跡 階段状の木組護岸を確認

2010年06月05日 | Weblog
 世界遺産登録を目指す幕末佐賀藩の海軍基地「三重津海軍所」跡(佐賀市川副・諸富町)の全容解明を進める佐賀市教委は、本年度初回となる発掘調査で船のドック遺構の木組(きぐみ)護岸を確認した。
 調査は佐野記念公園(川副町)で段階的に進めており、今回は5月下旬から実施。幅5・6m、奥行き4m、高さ2mの範囲で新たに木製護岸跡を確認した。護岸は、階段状に3段の構造になっており、縦横に丸太材(杭)や木板を複雑に組み合わせた造りで、砂と粘土を交互に積み重ねた造成土が盛られた。前年度調査で確認したドック遺構と併せて検証すると、海軍所のドック幅は30m前後になり、3段の下に、さらに3段ほどが地中に埋まっているとみている。海軍所でボイラーを取り付けた記録が残る軍艦「電流丸」(全長約50m)などの艦船を修理できる大規模な修船施設であった可能性が高まったとしている。
 調査現場からは多彩な遺物が出土した。「海」「役」の文字やチョウが波間を舞う「灘越蝶文(なだごしちょうもん)」と呼ばれる文様が入った磁器は、1850~60年に海軍所の備品として特注されたと考えられる三重津海軍所だけで使用された特注品(嬉野地方で生産)。過去の調査では、ドックと離れた地点で同規格の磁器が見つかっている。木製の下駄も出土した。また、蒸気船の燃料に使われた可能性のある石炭や、船の部品加工で排出されたとみられる鉄滓も見つかった。
 市教委は6日午前9時半、同10時半、同11時半の計3回、今回発掘調査についての現地の一般公開と説明会を行う。(2010.6.6 3回の見学会には140人が訪れた。)
[参考:佐賀新聞、西日本新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 三重津海軍所跡
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桜井市・脇本遺跡 大型建物跡が出土 欽明天皇の宮殿か?

2010年06月03日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が3日、5~6世紀に都が置かれた桜井市の「磯城(しき)」地域にある脇本遺跡で、6世紀後半~7世紀初めの大型掘立柱建物跡の巨大な柱穴6個が出土したと発表した。
 大型建物(1)は、欽明天皇(在位539~571年)の宮殿があったとされる時期にあたり、都と何らかの関係があった可能性があるとしている。日本書紀には、遺跡のある一帯に欽明天皇(?~571)の行宮(注1)があったと記されており、関連する建物だった可能性もある。
 大型建物(1)跡の一部と見られる巨大な柱穴は、ほぼ方形で1辺約1.3~2m、深さ約0.8~1.1m。東西3.6~3.7m、南北2.7~2.8m間隔でコの字形に並んでいた。建物は東西2間、南北3間以上だったとみている。それぞれの柱穴は、掘り直した跡があった。6世紀後半に建てられたあと、6世紀末~7世紀初めに建て替えられたらしい。柱の直径は、最初は38cm、建て替え後は48~58cm。飛鳥京の正殿の柱の太さ(約60cm)に匹敵する太さで、高層の建物だった可能性もあるという。主軸方向は約14度、西に振れている。柱抜き取り穴の中には焼土塊や炭片が多く含まれることから、建物が火災に遭ったものとみられる。
 また、592年に推古天皇が同地域から飛鳥(同県明日香村)に宮殿を遷した以降の柵跡東西8間分(長さ約20m)や建物(2)跡東西1間、南北1間(柱間1辺2.4~2.7m)も出土しており、遷都後も継続して、この場所が利用されていたことがうかがえる。柵と建物(2)の主軸方向は共に正方向。
 「磯城」は畿内から東海方面に通じる交通の要衝にあり、欽明天皇の「磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)」や「泊瀬柴籬宮(はつせしばがきのみや)」など、天皇の宮殿の伝承が数多く残る。過去の発掘調査では、雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」ともされる5世紀後半の大型建物跡などが出土している。
 現場は埋め戻しており、5~20日に同研究所付属博物館(橿原市)で遺構の写真パネルなどを展示する。
[参考共同通信、読売新聞、毎日新聞、橿原考古研究所「脇本遺跡(第15次)の調査成果について」H22.6.3]

(注1) 日本書紀 欽明天皇31年夏四月(略)、泊瀬柴籬宮に幸(いでま)す。(略)是の月に、乗輿、泊瀬柴籬宮より至ります。

奈良で飛鳥期の大型建物跡 欽明朝の柱穴も(共同通信) - goo ニュース
欽明天皇の宮殿?大型建物跡、桜井の遺跡で(読売新聞) - goo ニュース


過去の関連・ニュース・情報
■2007.12.7 桜井市・脇本遺跡 銅鐸のリサイクル工房跡か?
 奈良県立橿原考古学研究所が6日、桜井市脇本の脇本遺跡で古墳時代初め(3世紀初頭)の銅鐸の破片や、銅鐸とは違う鋳型などがまとまって出土したと発表した。銅鐸を別の青銅器製品に仕立てたリサイクル工房が近くにあったとみられる。
 銅鐸は紀元前3世紀ごろから祭器としてつくられ、近畿から各地に広まった。古墳時代の到来で廃れたが、どう姿を消したかは具体的にわかっていなかった。
 同時に出土した土器から、工房は約10~20年で消えた可能性が高く、脇本遺跡の北西約4kmにあり、邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(同市)の出現期に重なる。
[参考:時事通信社、共同通信、産経新聞、読売新聞、朝日新聞]

■2007.7.21 桜井市・脇本遺跡 雄略天皇の宮殿、西に広がる可能性
 脇本遺跡で、古代宮殿の一部とみられる大規模な掘っ立て柱建物跡の柱穴が見つかったことが、県立橿原考古学研究所の調査で分かった。3世紀末以降の柱穴(直径約30cm)が7個、南北方向に2列になって出土した。
 調査地の100m北東では84年に雄略天皇(在位5世紀後半ごろ)の宮殿「泊瀬朝倉宮」とみられる大規模な掘っ立て柱建物跡などの遺構が見つかっている。今回の遺構は柱穴の大きさや間隔、建物の向きがほぼ同じで規模が似ており、同時期の可能性が高いという。宮殿が西に広がっていた可能性があるという。
[参考:朝日新聞]
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慶南・河東郡・興龍里古墳群 河東郡で初めての三国時代古墳群を発見

2010年06月01日 | Weblog
 河東郡によれば1日、国道19号線(河東邑~岳陽面)拡張事業区間の河東邑興龍里一帯で文化財発掘調査を行った(財)東アジア文化財研究院が三国時代の竪穴式石槨墓21基、朝鮮時代墳墓16基を調査し、土器などを発掘した。
 三国時代の竪穴式石槨墓は蟾津江の東側丘陵を中心に月影形周溝が設置され、これを中心にした封土内に1基の埋葬主体部がある単槨式と2~3基の埋葬主体部がある多槨式が共に造成された。
 短頸壺・長頸壺、蓋杯、把手付碗、器台など土器数十点が出土したことからみて、石槨墓築造過程で土器と土器片を共に埋葬する葬俗行為が盛んに行われたとみている。
 特に、この地域で発掘された土器は下の部分に一字模様が残っており、十字模様が残る大伽耶様式を模倣して自らが生産したと推測される。土器を生産する過程で粘土を叩く打捺板の模様が一字と十字形状で違うためだ。
 出土遺物から、古墳群の造成年代は5世紀後半から6世紀前半と推定される。
 河東地域はこれまで、大規模古墳群が調査された事例が全くなく、古墳群が発掘されたことは今回が初めてだ。
 発掘された興龍里古墳群は蟾津江周辺地域との緩衝役割をしながらこの地域で伽耶のように三国時代につながった文化を把握するよい資料になるものとしている。
[参考:聨合ニュース、MNKマイニュース・コーリア]


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大分市・大友氏遺跡 キリシタン遺物「メダイ」の成分・銅はタイ産 鉛同位体比法の応用により推定

2010年06月01日 | Weblog
 大友氏遺跡(大分市)から出土した「メダイ」に含まれていた産地不明の鉛が、タイ西部にあるソントー鉱山で生産されたものである可能性が高いことが、30日に別府市であった日本西洋史学会第60回大会で報告された。
 発表したのは、別府大学の平尾良光教授(文化財保存科学)と飯沼賢司教授(文献歴史学)らの研究チーム。タイ、カンボジアの遺跡から発掘された青銅器が産地不明とされていた鉛の同位体比と合致した。
 戦国時代の日本で、鉛は鉄砲弾の材料であり、当時の輸出品『銀』の精錬に欠かせない金属だった。当時需要過多により不足した鉛を、火薬やその他の物質とともに南蛮貿易により調達したのではと推定する。
 ソントー鉱山で生産された鉛は、タイの貿易港であったアユタヤやパタニに運ばれ、外国船に積まれて日本にやってきたとみられるという。
[参考:大分合同新聞、「鉛同位体比法の応用-歴史資料の産地推定」平尾良光/J-GLOBAL]

過去の関連ニュース・情報
■2002.12.06 大友府内町遺跡から、製作途中とみられるキリスト教のメダイ6点が出土した。うち5点は狭い範囲でまとまって見つかったことから、工房跡の可能性もある。残りの1点は既に見つかっているメダイの近く、16世紀後半当時の御内町または堀ノ口町付近(第21次調査地点)で出土した。縦2.4cm、横1.8cmほどの縦長の楕円形。表面に十字架とみられる彫り込みがある。成分分析をした結果、主に鉛と錫の合金だった。ほかの半製品とみられる5点は、いずれも大きさはほぼ同じで、材質は鉛と錫が多く、一点だけ銅。
[参考:大分合同新聞]
■2001.8.25 大友府内町遺跡(大分市元町、第13次調査地点)から、16世紀後半の「メダイ」が出土した。メダイはほぼ円形で、直径約2cm。一方にキリストの顔、片方に子どものイエスを抱えるマリアを描いたとみられる浮き彫りがあった。
[参考:大分同道新聞]
 2008.9.11発掘された日本列島2008 「…江戸の誕生」初期のキリシタン遺物
 2008.7.15日向市塩見城跡 中山遺跡 国内初の土製キリシタン遺物が出土
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