歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈文研 寺院創建年代を「雨落溝」の列数から推定 川原寺は7世紀中頃

2010年06月19日 | Weblog
 奈良文化財研究所の青木敬研究員が、6~8世紀の飛鳥、奈良時代の寺院や宮殿の築造年代について、年代が新しくなるにつれて石組みの排水路「雨落溝」の石列数が減ること、また、側石と底石の大きさを比べると7世紀中ごろまでは側石が大きいが、7世紀後半以降は同じ大きさになるということに着目し、構造変化から導き出すユニークな推定方法を提唱した。
 明日香村の石神遺跡の発掘を担当した際、雨落溝の幅が他の遺跡と比べて広いことに気づき、奈良県の古代建造物を中心に雨落溝の形態を比較した。
 その結果、雨落溝の底石の列数が、6世紀末の飛鳥寺中金堂(明日香村)で5列▽7世紀中ごろの石神遺跡が4列▽7世紀後半の飛鳥浄御原宮跡が3列▽8世紀前半の興福寺中金堂(奈良市)が2列-など、年代が新しくなるほど減っていくことを突き止めた。
 それによると、築造年代が謎とされてきた明日香村の川原寺は、底石が4列だったことから創建は7世紀中ごろと推定。斉明天皇の川原宮(655~656年)の跡地が整地されてまもなく、寺が建立されたとする説を補強することになったとする。
[参考:産経新聞]

(備考)日本書紀によると、
 孝徳天皇白雉4年(653) 6月 天皇、旻法師命終せぬと聞して、(略)、遂に法師のために、画工狛竪部子麻呂・鯽魚戸直等に命せて、多に仏菩薩の像を造る。川原寺に安置す。(或本に云はく、山田寺に在すといふ。)
 天武2年(673) 3月 是の月に、書生(てかき)を聚へて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。

過去の関連ニュース・情報
 2009.2.24木津川市・高麗寺 講堂基壇の外装は極めて珍しい三重構造
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奈良・平城宮跡 当時の役人も肉食 寄生虫検出により裏づけ

2010年06月19日 | Weblog
 奈良文化財研究所が17日、奈良時代の平城京(710-784)で政治の中枢だった平城宮跡東方官衙(かんが)地区で昨年見つかった土壌化した糞便(ふんべん)を分析したところ、牛や豚の肉を食べると感染する寄生虫の卵を検出し、当時の人々が肉食をしていたことを確認したと発表した。当時の肉食が科学的に裏付けられたのは初めて。
 奈良時代は仏教思想の影響で、肉食が禁忌だったとされるが、一方で肉食禁止令が度々出された記録があったり、イノシシ肉を献上した木簡も出土したりしていることから、実際には肉食が広まっていたと推察されていた。
 遺構があったのは都を警備する「衛府(えふ)」があったとされる区画。昨年8月に直径50~95cm前後、深さ20cm(当初は推定1m)の6基の穴を見つけ、6基の穴全部に籌木(ちゅうぎ、トイレットペーパーの代わりに使った細長い木片)が入っており、計279点出土した。原形をとどめた人の便も見つかった。
 今回の発見と同様の寄生虫卵は鴻臚館跡(福岡市、8世紀)や秋田城跡(秋田市)の遺構でも検出されているが「肉食をする外国人が使ったため」との説があった。同研究所は「遺構は衛府とみられる区画にあることから、外国人の可能性は低い」とみている。また、宮内に外国人が登用されていた可能性もあるとの異見もある。
[参考:産経新聞、朝日新聞、日経新聞、奈良新聞、読売新聞、共同通信]

 古代日本人も牛豚食用 奈良時代、平城宮の役人(共同通信) - goo ニュース
 天平役人が禁断の肉食…平城宮トイレ穴出土(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2008.10.21 秋田城跡・水洗厠舎跡 「古代の水洗トイレ」復元工事着工
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慶州平野内・塔洞 2千年前の新羅建国勢力の首長の木棺墓を発掘か? 

2010年06月19日 | Weblog
 韓国文化財保護財団文化財調査연단は18日、慶州平野内塔洞(경주평야내 탑동)で小規模一戸建て住宅新築予定地を発掘調査した結果、木材が自然炭化する過程で炭のように変わった木棺の痕跡や多くの遺物を発掘したと発表した。紀元前1世紀中~後半に作られたと見られる首長級人物の木棺墓とみられる。慶州平野でこのような木棺墓が発見されたのは初めて。
 これで新羅が胎動した場所は、「慶州平野一帯辺りではなく、舍羅里130号墳や朝陽洞38号墳と同じ大型木棺墓が発見された慶州郊外周辺地域である可能性が高い」とする考古学界の主張が弱くなるものと見られる。
 木棺を埋めた墓壙は、長方形(長さ296㎝、幅144㎝)で東西方向に軸を設けていた。木棺は発見された痕跡から見ると、平面形状は「ㅍ」字形で大きさは長さ196㎝、幅84㎝であった。
 木棺内部から漆鞘銅剣(칠초동검)と漆鞘鉄剣(칠초철검)、刀の柄の剣把頭飾(검파두식)、青銅釧(청동 팔찌)、首飾り、そして死体の顔を隠すのに使ったものと推定される漆器扇(부채)などの遺物が大量に発見された。また、墓壙と木棺を覆った充填土からは紀元前2~1世紀頃この地域を代表する土器の組合式牛角形把手附壺(우각형 파수부호)、両耳附壷(양이부호)、袋状壺(주머니호)や、北方系遺物と評される鉄鍑(철복)、鉄帽(철모)、轡(재갈)、腰帯の虎形帯鉤(호형대구)、炭化した跡にだけ残った漆器(칠기)も多量に発掘された。
 これら遺物中、カエル装飾が慶北氷川入室里遺跡(입실리 유적)に次いで2番目に確認された。
 この墓は朴赫居世(박혁거세)が新羅を建国した紀元前57年と近接した紀元前1世紀中~後半に作られたと推定される。
 今回出土した死体顔面を覆う扇の事例は、昌原茶戸里遺跡(다호리 유적)1号木棺墓で初めて確認されて以来、慶北星州郡礼山里遺跡(예산리 유적)40号墳、金海市鳳凰洞遺跡(봉황동 유적)、そして慶北慶山市押梁面遺跡(압량면 유적)94号木棺墓から発見されており、今回の慶州発掘事例まで総合すると、このような独特の埋葬風習が紀元前後頃今の慶尚道地域全域にかけて流行したという事実を後押しした。
[参考:聨合ニュース]

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 2008.11.28慶尚南道昌原市北面・茶戸里遺跡 出土品から現れた新しい発見!

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