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桜井市・脇本遺跡 大型建物跡が出土 欽明天皇の宮殿か?

2010年06月03日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が3日、5~6世紀に都が置かれた桜井市の「磯城(しき)」地域にある脇本遺跡で、6世紀後半~7世紀初めの大型掘立柱建物跡の巨大な柱穴6個が出土したと発表した。
 大型建物(1)は、欽明天皇(在位539~571年)の宮殿があったとされる時期にあたり、都と何らかの関係があった可能性があるとしている。日本書紀には、遺跡のある一帯に欽明天皇(?~571)の行宮(注1)があったと記されており、関連する建物だった可能性もある。
 大型建物(1)跡の一部と見られる巨大な柱穴は、ほぼ方形で1辺約1.3~2m、深さ約0.8~1.1m。東西3.6~3.7m、南北2.7~2.8m間隔でコの字形に並んでいた。建物は東西2間、南北3間以上だったとみている。それぞれの柱穴は、掘り直した跡があった。6世紀後半に建てられたあと、6世紀末~7世紀初めに建て替えられたらしい。柱の直径は、最初は38cm、建て替え後は48~58cm。飛鳥京の正殿の柱の太さ(約60cm)に匹敵する太さで、高層の建物だった可能性もあるという。主軸方向は約14度、西に振れている。柱抜き取り穴の中には焼土塊や炭片が多く含まれることから、建物が火災に遭ったものとみられる。
 また、592年に推古天皇が同地域から飛鳥(同県明日香村)に宮殿を遷した以降の柵跡東西8間分(長さ約20m)や建物(2)跡東西1間、南北1間(柱間1辺2.4~2.7m)も出土しており、遷都後も継続して、この場所が利用されていたことがうかがえる。柵と建物(2)の主軸方向は共に正方向。
 「磯城」は畿内から東海方面に通じる交通の要衝にあり、欽明天皇の「磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)」や「泊瀬柴籬宮(はつせしばがきのみや)」など、天皇の宮殿の伝承が数多く残る。過去の発掘調査では、雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」ともされる5世紀後半の大型建物跡などが出土している。
 現場は埋め戻しており、5~20日に同研究所付属博物館(橿原市)で遺構の写真パネルなどを展示する。
[参考共同通信、読売新聞、毎日新聞、橿原考古研究所「脇本遺跡(第15次)の調査成果について」H22.6.3]

(注1) 日本書紀 欽明天皇31年夏四月(略)、泊瀬柴籬宮に幸(いでま)す。(略)是の月に、乗輿、泊瀬柴籬宮より至ります。

奈良で飛鳥期の大型建物跡 欽明朝の柱穴も(共同通信) - goo ニュース
欽明天皇の宮殿?大型建物跡、桜井の遺跡で(読売新聞) - goo ニュース


過去の関連・ニュース・情報
■2007.12.7 桜井市・脇本遺跡 銅鐸のリサイクル工房跡か?
 奈良県立橿原考古学研究所が6日、桜井市脇本の脇本遺跡で古墳時代初め(3世紀初頭)の銅鐸の破片や、銅鐸とは違う鋳型などがまとまって出土したと発表した。銅鐸を別の青銅器製品に仕立てたリサイクル工房が近くにあったとみられる。
 銅鐸は紀元前3世紀ごろから祭器としてつくられ、近畿から各地に広まった。古墳時代の到来で廃れたが、どう姿を消したかは具体的にわかっていなかった。
 同時に出土した土器から、工房は約10~20年で消えた可能性が高く、脇本遺跡の北西約4kmにあり、邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(同市)の出現期に重なる。
[参考:時事通信社、共同通信、産経新聞、読売新聞、朝日新聞]

■2007.7.21 桜井市・脇本遺跡 雄略天皇の宮殿、西に広がる可能性
 脇本遺跡で、古代宮殿の一部とみられる大規模な掘っ立て柱建物跡の柱穴が見つかったことが、県立橿原考古学研究所の調査で分かった。3世紀末以降の柱穴(直径約30cm)が7個、南北方向に2列になって出土した。
 調査地の100m北東では84年に雄略天皇(在位5世紀後半ごろ)の宮殿「泊瀬朝倉宮」とみられる大規模な掘っ立て柱建物跡などの遺構が見つかっている。今回の遺構は柱穴の大きさや間隔、建物の向きがほぼ同じで規模が似ており、同時期の可能性が高いという。宮殿が西に広がっていた可能性があるという。
[参考:朝日新聞]
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