奈良文化財研究所の青木敬研究員が、6~8世紀の飛鳥、奈良時代の寺院や宮殿の築造年代について、年代が新しくなるにつれて石組みの排水路「雨落溝」の石列数が減ること、また、側石と底石の大きさを比べると7世紀中ごろまでは側石が大きいが、7世紀後半以降は同じ大きさになるということに着目し、構造変化から導き出すユニークな推定方法を提唱した。
明日香村の石神遺跡の発掘を担当した際、雨落溝の幅が他の遺跡と比べて広いことに気づき、奈良県の古代建造物を中心に雨落溝の形態を比較した。
その結果、雨落溝の底石の列数が、6世紀末の飛鳥寺中金堂(明日香村)で5列▽7世紀中ごろの石神遺跡が4列▽7世紀後半の飛鳥浄御原宮跡が3列▽8世紀前半の興福寺中金堂(奈良市)が2列-など、年代が新しくなるほど減っていくことを突き止めた。
それによると、築造年代が謎とされてきた明日香村の川原寺は、底石が4列だったことから創建は7世紀中ごろと推定。斉明天皇の川原宮(655~656年)の跡地が整地されてまもなく、寺が建立されたとする説を補強することになったとする。
[参考:産経新聞]
(備考)日本書紀によると、
孝徳天皇白雉4年(653) 6月 天皇、旻法師命終せぬと聞して、(略)、遂に法師のために、画工狛竪部子麻呂・鯽魚戸直等に命せて、多に仏菩薩の像を造る。川原寺に安置す。(或本に云はく、山田寺に在すといふ。)
天武2年(673) 3月 是の月に、書生(てかき)を聚へて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。
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2009.2.24木津川市・高麗寺 講堂基壇の外装は極めて珍しい三重構造
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それによると、築造年代が謎とされてきた明日香村の川原寺は、底石が4列だったことから創建は7世紀中ごろと推定。斉明天皇の川原宮(655~656年)の跡地が整地されてまもなく、寺が建立されたとする説を補強することになったとする。
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(備考)日本書紀によると、
孝徳天皇白雉4年(653) 6月 天皇、旻法師命終せぬと聞して、(略)、遂に法師のために、画工狛竪部子麻呂・鯽魚戸直等に命せて、多に仏菩薩の像を造る。川原寺に安置す。(或本に云はく、山田寺に在すといふ。)
天武2年(673) 3月 是の月に、書生(てかき)を聚へて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。
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