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忠州楼岩里古墳群を発掘 「本軌道」

2008年10月05日 | Weblog
 新羅時代最大遺跡地の1つ、忠州楼岩里古墳群(충주 누암리고분군)の発掘調査が本格的に実施される。
 国立中原文化財研究所は2日、楼岩里一帯古墳群の分布現況に対する精密実態調査とGPS測量を終え、6日午前開土祭を開いて本格的な発掘を始めることを明らかにした。
 楼岩里古墳群は中大型級石室墳を含む230余基の古墳が分布しており、近隣には「下九岩里古墳群(하구암리고분군)」とともに慶州を除いて新羅時代最大規模の古墳群で知られる。
 また新羅が忠州に小京を設置して中央の貴族らをこちらに移住させたという歴史記録に照らして、6世紀半ばの新羅の歩みを調べることができる重要な遺跡と知られる。
 文化財庁は2005年楼岩里古墳群の一部だけを史跡463号(56,739㎡)に指定して管理してきたが、未指定遺跡の一部が盗掘、毀損されるなど保存が不十分で発掘が遅々と進まないという指摘が相次いだ。
[参考:10/2聯合ニュース]

備考:
忠州楼岩里古墳群
 忠清北道忠州市可金面楼岩里後方の山にある新羅時代の古墳。
 史跡 第463号楼岩里一帯に230余基の墳墓が分布している。
 発掘された26基の古墳の中で主流をなすのは横穴式石室墳で、横口式石槨墳2基、小型の竪穴式石槨墓3基を除いては単室墳であることが確認されている。この古墳群は新羅真興王の北辺開拓以後の6世紀中葉以後に作られたと推定される。 また新羅が忠州に小京を設置して中央貴族らをこちらに移住させるなどの歴史記録があって、漢江流域を統制しようとする新羅の動行を見せるなど新羅歴史研究の重要な遺跡と評価された。
 1983年3月に忠清北道記念物第36号中原楼閣岩里古墳群に指定・管理されてきたが、2005年3月に史跡 第463号に昇格指定され、今の忠州楼岩里古墳群に名称が変わった。

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