1月17日現地説明会を開催 1300人が参加
現地説明会は当初3回の予定だったが、来場者が多っかったため5回に増やしたとのこと。
出土遺物の中には、既報の物のほかに、通貨(満年通寶、和同開珎)それに碁石(黒)、下駄などがある。
[参考:京都新聞]
木津川市・馬場南遺跡 奈良期の未知の寺院跡・神雄寺?を発見
京都府埋蔵文化財調査研究センターと同市教委が13日、全国3例目の万葉歌木簡が出土したJR木津駅の南約1km地点の木津川市木津の馬場南遺跡の発掘調査で、文献に登場しない奈良時代中期-後期の未知の寺院「神雄寺」の主要な建造物と池の跡が見つかったと発表した。建物の構造や配置はこれまで全く類例がなく、天皇や大臣クラスの人物が利用したとみられる。
仏堂跡は、天神山(94m)南側の斜面で見つかった。柱跡や堂内の四隅からは等身大(高さ約160cm)とみられる四天王像の塑像片、信仰対象を置く須弥壇の周りに張り付けていた平瓦が出土した。遺物にはいずれも火災の痕跡があった。
仏堂は、見つかった5基の礎石(直径約30~50cm)から東西約4・9m、南北約4・5mの規模で、「ロ」の字形に礎石や柱穴が17カ所見つかった。0・9~1・6mの間隔で柱が並んでいたらしい。本来なら、建物の周りの柱の内側に2重の柱で補強する建築様式が一般的だが、仏堂は外回り1周に配置した柱で全体を支えていた。また、背面と正面で柱間が異なっていた。国内では類例がない建築方式を採用していたとみられるが、中国・唐代のうち8~10世紀ごろの遺構によくみられる特徴という。
その内側に多数の瓦が方形に積み重なっていたおり、中心に心柱の礎石の抜き取り跡とみられる穴(縦1m、横1・5m)があった。庇を南側に伸ばした入り母屋造りで、堂内の大半を須弥壇が占める特異な構造。須弥壇の地面は周囲より高く、中央に心柱の礎石の抜き取り跡とみられる穴(あるいは須弥山を安置する台座の跡)がある。仏教世界の神山「須弥山」をイメージした構造で、心柱などを囲んで築山状の須弥壇に、山や水を造形した奈良三彩陶器を並べ、周囲に四天王像を配したとみられる。本尊にあたる仏像は見つからず、木像など塑像と違う材質だったために焼失したか、別に移したか、あるいは最初からなかった可能性もある。
塑像片は百数十点出土。髷、甲冑を着た胴体部、邪鬼の一部などがあり、そのうち目の部分の破片は出土位置から、須弥山の北東に配置される四天王像の一つの多聞天の一部とみられる。四天王は通常、本尊を守護する存在だが、猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「須弥山を祭る小寺院だった可能性もある」とする。
仏堂南側の谷では、約100mにわたり川を堰き止めた池跡が見つかった。池のほとりでは仏堂前に造成されたテラス状の平地(東西最大30m、南北25m)に掘っ立て柱の建物跡があった。中軸線や向きが仏堂と一致し、東西8・1m、南北4・2mの礼堂(らいどう)跡とみられる。
池は760年ごろに一度は埋まり、直後に掘り直されて780年代まで存続した形跡がある。これまでに周囲で8000枚以上の灯明皿が出土し、大規模な法要の燃灯(ねんとう)供養が行われたとみられる。三彩陶器や、「神雄寺」と書かれた土器、天皇や大臣クラスの存在を表す「大殿」と記された墨書土器、万葉木簡も出土している。
調査した木津川市教委は「大規模な燃灯供養を行う特殊な装置としての神雄寺の存在は、学問中心の平地寺院や修業を中心とした山岳寺院と異なる。儀式や法要専門の寺院だった可能性が高い。」とし、今までの古代寺院・仏教観を一変させるという。
奈良時代中期に聖武天皇がたびたび延命供養を行っていた
橘氏など当時の高級貴族の氏寺だった
文献に記述がないことから天皇とは考えにくく、一時期に権勢を誇り、その後「反逆者」として処刑されたり失脚した人物の氏寺だった
橘諸兄(もろえ)あるいは諸兄の長男、奈良麻呂などでは、
など専門家の間でも諸説入り交じる。
市教委は国の史跡指定を目指す方針。
発掘現場は17日午前10時から午後3時まで公開する。午前10時半、午後1時半、2時半に説明会がある。
出土遺物は同日、木津川市役所で展示される。問合せは市文化財保護室。
[参考:京都新聞、産経新聞、時事通信社、読売新聞、毎日新聞]
奈良中・後期の山林寺院=万葉木簡発見の馬場南遺跡-京都(時事通信) - goo ニュース
「幻の神雄寺」に手がかり?塑像片出土…京都・馬場南遺跡(読売新聞) - goo ニュース
2009.1.10掲載分
木津川市・馬場南遺跡 現地説明会 1月17日
昨年10月に出土した遺構・遺物に関しての現地説明会が開催されます。
平成21年1月17日(土)午前10時30分~午後3時
京都府木津川市木津糠田の発掘調査地 *小雨決行
遺物展示会場:木津川市役所内ホール
[参考:京都府埋蔵文化財調査研究センター]
2008.10.22掲載分
木津川市・馬場南遺跡 万葉歌記された木簡が出土 奈良中・後期 3例目か
京都府府埋蔵文化財調査研究センターが22日、万葉集に収録された歌が書かれた木簡の一部が木津川市の馬場南遺跡(旧・文廻池遺跡)から出土したと発表した。
万葉歌が記された木簡は、滋賀県甲賀市の紫香楽宮跡と奈良県明日香村の石神遺跡に続いて3例目となる。
今回発見された木簡は奈良時代中・後期の750~780年のものとみられ、時代が新しい木簡となる。
木簡の一部は、川の跡から土師器などの破片とともに見つかった。長さ23.4cm、幅2.4cm、厚さ1.5cmで、歌を記すための通常の木簡より一回り大きい「歌木簡」(全長推定60cm)とみられる。墨を使い万葉仮名で「阿支波支乃之多波毛美智」(あきはぎのしたばもみち)の11文字が縦書きされ、途中で折れていた。
同センターによると、記されているのは万葉集巻第10にある、読み人知らずの歌「秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ゆけば風をいたみかも」の一部という。
8世紀半ば以降とされる万葉集の編纂後に書かれた可能性があり、大阪市立大の栄原永遠男教授(日本古代史)は「万葉集を写したとも考えられ、歌集がどのように広まったのか解明する糸口になるかもしれない」とする。
三彩や緑釉で仏教世界の中心にある須弥山などを表現した陶器の破片約50点も出土。仏像の台座「須弥壇」の一部とみられ、直径が150cm、高さが10-15cmあったと推定される三彩陶器や「神雄(尾)寺」などと記した墨書土器、8千枚以上の灯明皿も出土。文献にない未知の寺が近くにあったとみられる。
現地は奈良時代中~後期の寺院遺跡で、奈良の都の北郊にあたる。古代の木津の港から続く古道沿いで、平城宮や東大寺への分岐点に当たる交通の要衝にあり、専門家は「有力な貴族が関係する山寺では」と注目している。現地説明会は年内に行われる予定。
[参考:時事通信、共同通信、京都新聞、朝日新聞]
8世紀後半の万葉歌木簡 京都・木津川の馬場南遺跡(共同通信) - goo ニュース
万葉集 巻第十 秋雑歌 2205
秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも
秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨
[意] 秋萩の下葉が黄葉したことだ。あらたまの月が経過していくと、秋風も激しいからかなあ。
参考として、
万葉集 巻第八 1608 弓削皇子(?~699)御歌一首
秋萩の 上に置きたる 白露の 消かも死なまし 恋ひつつあらずは
秋芽子之 上尓置有 白露乃 消可毛思奈萬思 戀管不有者
[意] 秋萩の上に置いた白露のように消えて死にもしようかなあ。 恋に苦しみつづけていないで。
万葉集 巻第八 1595 大伴宿祢像見(750~772頃活躍)歌一首
秋萩の 枝もとををに 置く露の 消なば消ぬとも 色に出でめやも
秋芽子乃 枝毛十尾二 降露乃 消者雖消 色出目八方
[意] 秋萩の枝もたわわに置く露のように、消えるなら消えてもよい。消えこそすれ色に出すことなどどうしてあろうか。
[参考:「万葉集」中西進(全訳原文付)/講談社]
万葉集の中で、「秋萩」から始まる歌は、 1514,1550,1559,1595,1608,1617,1790,2120,2126,2145,2150,2152,2153,2155,2170,2205,2252,2258,2259,2262,2285,
2290,3656
と、23首ある。
作者が分かっているものは、1514穂積皇子(673?~715)、1550湯原王((志貴皇子?~716)の子)、1617山口女王(生没年未詳だが大伴家持(718~785)に贈れる歌とある)、1790(733遣唐使時)、その他詠み人知らず、但し3656は天平8年(736)の歌で原文は「安伎波疑」となっている。今回出土の秋萩は「阿支波支」をあてている。
[注意:前出・文廻池遺跡出土の奈良三彩そして「神尾寺」と書かれた墨書土器は、同じ場所の出土品で、馬場南遺跡と名称が変更された。
また、神尾寺と書かれた墨書土器は1点以上、神雄寺と書かれたものは3点以上見つかっており、近くに神雄(尾)寺と呼ばれた寺院があったと想像されるとする。]
現地説明会は当初3回の予定だったが、来場者が多っかったため5回に増やしたとのこと。
出土遺物の中には、既報の物のほかに、通貨(満年通寶、和同開珎)それに碁石(黒)、下駄などがある。
[参考:京都新聞]
木津川市・馬場南遺跡 奈良期の未知の寺院跡・神雄寺?を発見
京都府埋蔵文化財調査研究センターと同市教委が13日、全国3例目の万葉歌木簡が出土したJR木津駅の南約1km地点の木津川市木津の馬場南遺跡の発掘調査で、文献に登場しない奈良時代中期-後期の未知の寺院「神雄寺」の主要な建造物と池の跡が見つかったと発表した。建物の構造や配置はこれまで全く類例がなく、天皇や大臣クラスの人物が利用したとみられる。
仏堂跡は、天神山(94m)南側の斜面で見つかった。柱跡や堂内の四隅からは等身大(高さ約160cm)とみられる四天王像の塑像片、信仰対象を置く須弥壇の周りに張り付けていた平瓦が出土した。遺物にはいずれも火災の痕跡があった。
仏堂は、見つかった5基の礎石(直径約30~50cm)から東西約4・9m、南北約4・5mの規模で、「ロ」の字形に礎石や柱穴が17カ所見つかった。0・9~1・6mの間隔で柱が並んでいたらしい。本来なら、建物の周りの柱の内側に2重の柱で補強する建築様式が一般的だが、仏堂は外回り1周に配置した柱で全体を支えていた。また、背面と正面で柱間が異なっていた。国内では類例がない建築方式を採用していたとみられるが、中国・唐代のうち8~10世紀ごろの遺構によくみられる特徴という。
その内側に多数の瓦が方形に積み重なっていたおり、中心に心柱の礎石の抜き取り跡とみられる穴(縦1m、横1・5m)があった。庇を南側に伸ばした入り母屋造りで、堂内の大半を須弥壇が占める特異な構造。須弥壇の地面は周囲より高く、中央に心柱の礎石の抜き取り跡とみられる穴(あるいは須弥山を安置する台座の跡)がある。仏教世界の神山「須弥山」をイメージした構造で、心柱などを囲んで築山状の須弥壇に、山や水を造形した奈良三彩陶器を並べ、周囲に四天王像を配したとみられる。本尊にあたる仏像は見つからず、木像など塑像と違う材質だったために焼失したか、別に移したか、あるいは最初からなかった可能性もある。
塑像片は百数十点出土。髷、甲冑を着た胴体部、邪鬼の一部などがあり、そのうち目の部分の破片は出土位置から、須弥山の北東に配置される四天王像の一つの多聞天の一部とみられる。四天王は通常、本尊を守護する存在だが、猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「須弥山を祭る小寺院だった可能性もある」とする。
仏堂南側の谷では、約100mにわたり川を堰き止めた池跡が見つかった。池のほとりでは仏堂前に造成されたテラス状の平地(東西最大30m、南北25m)に掘っ立て柱の建物跡があった。中軸線や向きが仏堂と一致し、東西8・1m、南北4・2mの礼堂(らいどう)跡とみられる。
池は760年ごろに一度は埋まり、直後に掘り直されて780年代まで存続した形跡がある。これまでに周囲で8000枚以上の灯明皿が出土し、大規模な法要の燃灯(ねんとう)供養が行われたとみられる。三彩陶器や、「神雄寺」と書かれた土器、天皇や大臣クラスの存在を表す「大殿」と記された墨書土器、万葉木簡も出土している。
調査した木津川市教委は「大規模な燃灯供養を行う特殊な装置としての神雄寺の存在は、学問中心の平地寺院や修業を中心とした山岳寺院と異なる。儀式や法要専門の寺院だった可能性が高い。」とし、今までの古代寺院・仏教観を一変させるという。
奈良時代中期に聖武天皇がたびたび延命供養を行っていた
橘氏など当時の高級貴族の氏寺だった
文献に記述がないことから天皇とは考えにくく、一時期に権勢を誇り、その後「反逆者」として処刑されたり失脚した人物の氏寺だった
橘諸兄(もろえ)あるいは諸兄の長男、奈良麻呂などでは、
など専門家の間でも諸説入り交じる。
市教委は国の史跡指定を目指す方針。
発掘現場は17日午前10時から午後3時まで公開する。午前10時半、午後1時半、2時半に説明会がある。
出土遺物は同日、木津川市役所で展示される。問合せは市文化財保護室。
[参考:京都新聞、産経新聞、時事通信社、読売新聞、毎日新聞]
奈良中・後期の山林寺院=万葉木簡発見の馬場南遺跡-京都(時事通信) - goo ニュース
「幻の神雄寺」に手がかり?塑像片出土…京都・馬場南遺跡(読売新聞) - goo ニュース
2009.1.10掲載分
木津川市・馬場南遺跡 現地説明会 1月17日
昨年10月に出土した遺構・遺物に関しての現地説明会が開催されます。
平成21年1月17日(土)午前10時30分~午後3時
京都府木津川市木津糠田の発掘調査地 *小雨決行
遺物展示会場:木津川市役所内ホール
[参考:京都府埋蔵文化財調査研究センター]
2008.10.22掲載分
木津川市・馬場南遺跡 万葉歌記された木簡が出土 奈良中・後期 3例目か
京都府府埋蔵文化財調査研究センターが22日、万葉集に収録された歌が書かれた木簡の一部が木津川市の馬場南遺跡(旧・文廻池遺跡)から出土したと発表した。
万葉歌が記された木簡は、滋賀県甲賀市の紫香楽宮跡と奈良県明日香村の石神遺跡に続いて3例目となる。
今回発見された木簡は奈良時代中・後期の750~780年のものとみられ、時代が新しい木簡となる。
木簡の一部は、川の跡から土師器などの破片とともに見つかった。長さ23.4cm、幅2.4cm、厚さ1.5cmで、歌を記すための通常の木簡より一回り大きい「歌木簡」(全長推定60cm)とみられる。墨を使い万葉仮名で「阿支波支乃之多波毛美智」(あきはぎのしたばもみち)の11文字が縦書きされ、途中で折れていた。
同センターによると、記されているのは万葉集巻第10にある、読み人知らずの歌「秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ゆけば風をいたみかも」の一部という。
8世紀半ば以降とされる万葉集の編纂後に書かれた可能性があり、大阪市立大の栄原永遠男教授(日本古代史)は「万葉集を写したとも考えられ、歌集がどのように広まったのか解明する糸口になるかもしれない」とする。
三彩や緑釉で仏教世界の中心にある須弥山などを表現した陶器の破片約50点も出土。仏像の台座「須弥壇」の一部とみられ、直径が150cm、高さが10-15cmあったと推定される三彩陶器や「神雄(尾)寺」などと記した墨書土器、8千枚以上の灯明皿も出土。文献にない未知の寺が近くにあったとみられる。
現地は奈良時代中~後期の寺院遺跡で、奈良の都の北郊にあたる。古代の木津の港から続く古道沿いで、平城宮や東大寺への分岐点に当たる交通の要衝にあり、専門家は「有力な貴族が関係する山寺では」と注目している。現地説明会は年内に行われる予定。
[参考:時事通信、共同通信、京都新聞、朝日新聞]
8世紀後半の万葉歌木簡 京都・木津川の馬場南遺跡(共同通信) - goo ニュース
万葉集 巻第十 秋雑歌 2205
秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも
秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨
[意] 秋萩の下葉が黄葉したことだ。あらたまの月が経過していくと、秋風も激しいからかなあ。
参考として、
万葉集 巻第八 1608 弓削皇子(?~699)御歌一首
秋萩の 上に置きたる 白露の 消かも死なまし 恋ひつつあらずは
秋芽子之 上尓置有 白露乃 消可毛思奈萬思 戀管不有者
[意] 秋萩の上に置いた白露のように消えて死にもしようかなあ。 恋に苦しみつづけていないで。
万葉集 巻第八 1595 大伴宿祢像見(750~772頃活躍)歌一首
秋萩の 枝もとををに 置く露の 消なば消ぬとも 色に出でめやも
秋芽子乃 枝毛十尾二 降露乃 消者雖消 色出目八方
[意] 秋萩の枝もたわわに置く露のように、消えるなら消えてもよい。消えこそすれ色に出すことなどどうしてあろうか。
[参考:「万葉集」中西進(全訳原文付)/講談社]
万葉集の中で、「秋萩」から始まる歌は、 1514,1550,1559,1595,1608,1617,1790,2120,2126,2145,2150,2152,2153,2155,2170,2205,2252,2258,2259,2262,2285,
2290,3656
と、23首ある。
作者が分かっているものは、1514穂積皇子(673?~715)、1550湯原王((志貴皇子?~716)の子)、1617山口女王(生没年未詳だが大伴家持(718~785)に贈れる歌とある)、1790(733遣唐使時)、その他詠み人知らず、但し3656は天平8年(736)の歌で原文は「安伎波疑」となっている。今回出土の秋萩は「阿支波支」をあてている。
[注意:前出・文廻池遺跡出土の奈良三彩そして「神尾寺」と書かれた墨書土器は、同じ場所の出土品で、馬場南遺跡と名称が変更された。
また、神尾寺と書かれた墨書土器は1点以上、神雄寺と書かれたものは3点以上見つかっており、近くに神雄(尾)寺と呼ばれた寺院があったと想像されるとする。]
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