1899年(明治32年)の事です。
朝寝坊夢之助と言う落語の前座がいました。
朝寝坊むらくと言う落語家の弟子で、
毎月師匠の持席の変るごとに、
引幕を萌黄の大風呂敷に包んで
背負って歩いていました。
朝寝坊むらくは、
江戸時代を起源とする落語家の名跡で、
その師匠は6代目むらくでした。
この朝寝坊夢之助は、
入門後半年くらいした時、
寄席の高座に出演しているところを、
父親の使用人に見付かり、
家に連れ戻されてしまったため、
そこで廃業する事になりました。
夢之助の父親は、
当時、日本郵船の上海支店長を勤めていましたが、
その前は、
内務省、文部省などの役人だった人物です。
夢之助は、
1879年(明治12年) 12月3日に生まれました。
1897年(明治30年)、
高等師範学校附属尋常中学校
(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業しますが、
第一高等学校の入試に失敗し、
一時期上海に渡ります。
帰国して、神田一ツ橋の
高等商業学校附属外国語学校清語科に在籍していました。
寄席に出ていた事もあったのでしょう、
外国語学校は除籍になってしまいます。
その後、巖谷小波の木曜会に入ったり、
歌舞伎座の立作者福地桜痴に入門したりして、
1903年(明治36年)、父の計らいでアメリカに渡り、
その後フランスにも行きます。
さて、この朝寝坊夢之助は
誰だかお分かりになるでしょうか?
本名、永井壮吉、
号に金阜山人、断腸亭主人などを使った永井荷風です。
父親の使用人に見付かって連れ戻されなければ、
一流の噺家になっていたかも知れませんが、
荷風の名作は生まれなかったかも知れません。
人間の面白さを感じる話だと思っています。
朝寝坊夢之助と言う落語の前座がいました。
朝寝坊むらくと言う落語家の弟子で、
毎月師匠の持席の変るごとに、
引幕を萌黄の大風呂敷に包んで
背負って歩いていました。
朝寝坊むらくは、
江戸時代を起源とする落語家の名跡で、
その師匠は6代目むらくでした。
この朝寝坊夢之助は、
入門後半年くらいした時、
寄席の高座に出演しているところを、
父親の使用人に見付かり、
家に連れ戻されてしまったため、
そこで廃業する事になりました。
夢之助の父親は、
当時、日本郵船の上海支店長を勤めていましたが、
その前は、
内務省、文部省などの役人だった人物です。
夢之助は、
1879年(明治12年) 12月3日に生まれました。
1897年(明治30年)、
高等師範学校附属尋常中学校
(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業しますが、
第一高等学校の入試に失敗し、
一時期上海に渡ります。
帰国して、神田一ツ橋の
高等商業学校附属外国語学校清語科に在籍していました。
寄席に出ていた事もあったのでしょう、
外国語学校は除籍になってしまいます。
その後、巖谷小波の木曜会に入ったり、
歌舞伎座の立作者福地桜痴に入門したりして、
1903年(明治36年)、父の計らいでアメリカに渡り、
その後フランスにも行きます。
さて、この朝寝坊夢之助は
誰だかお分かりになるでしょうか?
本名、永井壮吉、
号に金阜山人、断腸亭主人などを使った永井荷風です。
父親の使用人に見付かって連れ戻されなければ、
一流の噺家になっていたかも知れませんが、
荷風の名作は生まれなかったかも知れません。
人間の面白さを感じる話だと思っています。
ただ壮絶なのは、荷風の生き方と云うか死に方というか、そういう事柄です。驚くべき大金をいつも所持していて、それでお気に入りのカツ丼を食べていたし、その足で浅草のストリップ劇場の楽屋に入りびたりになっていた。壮吉の結果的に破天荒な人生は、厳しい父親の暗黙の反抗であったのか?書かれている様に壮吉の父は政府の高官の一人であり、企業の重役でもあったようです。金に不自由はないので、アメリカへのフランスへも留学をしている。確か日本に帰り慶応のフランス語の教授?もしていた様ですね?その死は山田風太郎が書いている所によれば、実に悲惨な気がします。
僕は荷風全集は持っていませんが、
同じような本は、だいぶ前になりますが読んでいます。
荷風の人生を論じるまで詳しくはないのですが、
完全に社会からドロップアウトした事で、色々な弱い立場の人に目が行くようになったような気がします。
その辺は肯定的なのですが、彼の人生を真似る気にはなれないなぁと思っています。