天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

殿様の養子事情

2015-09-07 | Weblog
 江戸時代、各藩は家の継続を図るため、跡継ぎがない場合には、
 どこかの大名の次男・三男などを養子に迎えていました。
 お家断絶ともなると多くの家臣団などが失業しますので、
 これは当然の事でした。

 下野国に黒羽藩と言う小藩がありました。
 石高18,000石ですが、古くからこの地方を治めた那須氏の家臣でした。
 しかし、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、主家を見限って秀吉側に付き、
 更に関ヶ原の戦いの際には、東軍に付いて戦後本領を安堵されます。

 1811年(文化8年)、第10代藩主・大関増陽の養嗣子として
 伊予国大洲藩主・加藤泰衑の八男加藤舎人、後の泰周を迎え、
 大関増業(おおぜき ますなり)として、第11代藩主とします。

 このとき養父・増陽は28歳、それに対して養子の増業は31歳と、
 養父子の関係にありながら
 年齢が逆であるという異例の養子縁組でした。
 このため、幕府に対する届けは、増業の年齢を偽って提出されています。

 何故、このような無理な養子縁組が行われたのか興味を感じますが、
 どうやら黒羽藩の財政事情が関係しているようです。
 養子縁組の際には持参金が加藤家から支払われますが、
 この時の持参金は2000両で、これが目当てだったようです。
 しかも、増業が在任中、持参金の外に、
 加藤家からの資金援助を受けていた形跡があります。
 藩の財政再建のため、自分の子どもがいるのに、
 養子縁組をした所もあったようです。

 江戸時代で養子縁組から藩主になった人は、
 本来は藩主になれなかった生まれなのに、藩主の地位に就いた事や、
 優秀な人が多かった事から、領地の運営に熱心に取り組みます。
 増業も、藩政改革に取り組みます。
 厳しい倹約令を出して経費節減に努めた外、
 藩の商人から多額の金を借用し、これにより、
 換金性の高い煙草や木綿、胡麻、蕎麦、麻などの農産物の栽培と
 那珂川水運の整備、及び治水工事などを行おうとします。
 しかし、川の水運工事に対して家臣団が猛反対し、
 1824年(文政7年)に増業に隠居を迫りました。
 養子として入った増業には味方が無く、同年のうちに家督を、
 先代・増陽の次男大関増儀に譲って隠居することを余儀なくされます。

 その後、増業は水戸藩の徳川斉昭や松代藩の真田幸貫ら
 江戸時代後期の名君と呼ばれる面々と交流しながら、
 学問に熱中しました。
 元々学問好きだったため、藩主時代に記した『創垂可継』をはじめ、
 隠居時代においても医学書の『乗化亭奇方』や
 後世において科学史・技術史書として評価された
 故実書の『止戈枢要』など、
 多くのジャンルに及ぶ著作を行ない、
 1845年(弘化2年)、65歳で死去しました。
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4 コメント

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Unknown (時代錯誤)
2015-09-24 09:05:13
お早う御座います。八月二十六日、悪天候の中を那須与一記念館をはじめ、大雄寺他を回りました。黒羽藩大関氏は、那須氏の家来でしたが鎌倉・室町・戦国・豊織・江戸時代を生き抜き、明治まで存在し続けましたね。大雄寺の和尚に言わせると、松葉川と那珂川に囲まれた台地にあり天然の防壁となっているのが、黒羽藩が生き残った条件の一つであったと仰っていました。江戸時代中期には商品経済の発展もあり、どこの藩も大抵は財政難でしたが、1万8千石の小藩である黒羽藩も例外ではなかった。そこで持参金目当ての養子をとる。お書きに成られている大関増業も名君でしたが、家臣団に隠居させられる。それから何代かして、有名な海軍奉行大関増裕も養子ですね。有能な人物であったらしく困難な時代を生きようとした。彼の時代は水戸天狗党などの騒乱もあり、尊皇攘夷と開国の日本史上、極めて多難な時期ですね。思うに黒羽藩は家老団の権力が恐ろしく強い、それは主君が婿乃至、養子であるということも影響しているのか?分かりません。大関増裕は藩のフランス式の軍制改革に熱心でした。彼の海軍奉行という立場は微妙であり、維新前夜に於いては、ある意味で危ういものでした。慶応三年十月十四日に徳川慶喜が大政奉還をすると、増裕は黒羽に帰り農民も加えた藩政改革、軍制改革に邁進する。彼の頭に中にあったのは、そこからナポレオンが出現して来る、フランス国民軍の様な組織であったのでしょう。ですが、慶応三年(1867年)12月9日、黒羽の雑木林での演習中に銃が暴発し命を落とします。これが事故でない事だけは確かです。自殺か、暗殺のどちらかでしょう。状況から言えば暗殺が99%、立場から言えば倒幕側に付く事は、無理でしょうから、彼の苦しい思いは有ったにしても、負けると分かったとしても、最後まで戦い抜いたと思います。増裕が生きていれば藩は倒幕側に立つ事は出来ない。その後、リアリズムに徹した家老団は、藩主を葬って倒幕側に付きました。明治元年は、大関増裕が死んでからわずか九ヶ月後です。大雄寺の裏の高台には、大関家の巨大な墓石が立ち並んでいました。
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Unknown (井頭山人(時代錯誤))
2015-09-25 11:45:43
大関増裕の死後、黒羽藩は薩長土肥の側につきますが、増裕の配下で長崎操練所会頭であった勝安房守(海舟)は、増裕の死をどう思った事でしょうか。黒羽にも勝は行っています。海舟が咸臨丸でアメリカに渡ったときの正使は木村摂津守でしたが、その私的下寮として福沢諭吉も一緒でした。勝は戊辰戦争に際して、江戸開城の交渉を進めます。幕末の事情を福沢は自伝でも幾らか書いていますが、勝に付いてはあまり好意的ではないように思えます。
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Unknown (井頭山人)
2015-09-27 15:08:56
天然居士さま
以前の記事を拝見しました。すでに「大関増裕」に付いては、お書きに成られていたのですね。何も知らず余計な事を書き、誠に失礼を致しました。ごめんなさい!
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有難うございました。 (天然居士)
2015-10-05 18:43:25
井頭山人さん コメント有難うございました。
お返事が遅くなって申し訳ありませんでした。

大関増裕は、とても興味深い人物だと思います。
2004年11月に栃木県立博物館で、企画展がありそこで詳しく知りました。
とにかく熱心に外国の状況を吸収しようとしたようで、部下だった勝海舟も温かな目で見ていたような気がします。

30歳で夭逝しましたが、その死の謎も含めてもっと勉強したい人ですね。
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