天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

棟方志功と民芸運動

2023-10-16 | Weblog
 先日、東京の国立近代美術館で開催されている、
 「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」を観て来ました。
 展示された作品の中に棟方の出世作ともなった、
 「大和し美し版画巻」があり、面白いキャプションがありましたので、
 覚えている範囲で書いておきます。

 ご承知の方も多いかと思いますが、
 青森市に生まれた棟方は、洋画家となる事を目指して上京します。
 1926年(昭和2年)、国画創作協会の展覧会で観た
 川上澄生の版画『初夏の風』に感動し、棟方は版画家になることを決心します。

 1934年(昭和9年)、佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで創作意欲を掻き立てられ、
 1936年(昭和11年)に「大和し美し版画巻」を国画展に出品します。
 この作品は、長さが7mほどもある対策で、
 展示について、国画会の事務局ともめました。
 その話を聞きつけた民芸運動の第一人者である柳宗悦が来て、
 この「大和し美し版画巻」を購入する事を即決します。
 当時、柳や濱田庄司などは、新たに日本民藝館の建設を計画していて、
 そこに展示する作品を探していたところでした。
 それ以来、柳は棟方の作品の指導監修にあたります。
 半年後、同館の開館時には新作「華厳譜」が大広間の壁一面を飾ったとの事です。

 これをきっかけに、柳や濱田、河井寛次郎らの
 民藝運動の指導者との交流が始まります。
 棟方は仏教や民芸の世界に傾倒していきます。
 柳は、技法でも棟方志功に影響を与えており、
 棟方の代表的な技法である紙の裏から色づけする「裏彩色」も、
 柳の影響によるものです。
 今回の展覧会にも「大和し美し版画巻」の中の「倭建命の柵」が、
 裏彩色で出展されていました。

 民芸運動と棟方の関係はその後も続き、
 師である、柳宗悦が病床にあった時、
 柳が「偈」と呼び、自らの心境を自由に短い句で述べた歌を、
 棟方の板画とともに描いた「心偈頌」を捧げていますし、
 河井寛次郎、濱田庄司を讃仰し、
 それぞれの窯の名から「鐘渓頌」、「道祖土頌」と名付けられた作品も
 捧げられています。

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追腹一件

2023-09-20 | Weblog
 主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切ったりした場合、
 家来達が後を追って討ち死にしたり切腹したりする風習が戦国時代にありました。
 江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったこともあり、
 自然死の場合でも家臣が殉死をするようになったと言われています。
 1607年(慶長12年)に松平忠吉が病死した際の殉死が最初であるといわれ、
 同年の結城秀康病死後に万石取りの重臣らが後を追いました。
 徳川秀忠や家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死しています。

 4代将軍徳川家綱から5代綱吉の治世期には、
 幕政が武断政治から文治政治へと移行しつつあり、
 1661年(寛文元年)、水戸藩主徳川光圀が徳川頼房への殉死願いを許さず、
 その年には会津藩主保科正之が殉死の禁止を藩法に加えています。
 当時の幕閣を指導していた保科正之の指導の下、
 1663年(寛文3年)の武家諸法度の公布とともに、
 幕府は、殉死は「不義無益」であるとしてその禁止が各大名家に口頭伝達しました。

 ところが、これに反する殉死が宇都宮藩で行われ、追腹一件と呼ばれています。
 1668年3月31日(寛文8年2月19日)、
 宇都宮藩主奥平忠昌が、江戸汐留の藩邸で病死します。
 忠昌の世子であった長男の奥平昌能は、
 忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し「いまだ生きているのか」と詰問し、
 これが原因で杉浦はただちに切腹しました。
 4代将軍徳川家綱の下で文治政治への転換を進めていた江戸幕府は、
 昌能と杉浦の行為をともに殉死制禁に対する挑戦行為ととらえ、
 奥平家に対し2万石を減封して出羽山形藩9万石への転封に処し、
 殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど厳しい態度で臨み、
 これにより、殉死者の数は激減したといわれています。
 殉死の禁止は、家臣と主君との情緒的人格的関係を否定し、
 家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという
 新たな主従関係の構築を意図したものと考えられています。

 余談ですが、忠昌没後14日目に、宇都宮の興禅寺で法要が行われた際、
 奥平家重臣の奥平内蔵允が、法要への遅刻を
 同僚の奥平隼人に責められたのをきっかけに2人が口論となり、
 内蔵允が隼人に斬りつけ、両名が私闘に及ぶという事件が起こります。
 この事件への昌能の裁定に対して、藩士間では不満が渦巻き、
 内蔵允の子の奥平源八らによって
 江戸牛込浄瑠璃坂での隼人への仇討ち事件が起こります。
 この事件は、浄瑠璃坂の仇討と呼ばれ、
 伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と、赤穂浪士の討ち入りと合わせて、
 江戸三大仇討ちと呼ばれています。

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桑茶政策

2023-09-05 | Weblog
 江戸は歴史的経緯から、都市面積の6割を武家地が占めていましたが、
 1868年(明治元年)、これらの土地・屋敷の大部分は新政府により接収されました。
 この土地・屋敷は政府官員の住居などとして活用されましたが、
 一方で荒廃した土地も多くあったため、
 初代東京府知事となった大木喬任は、
 こうした土地に桑・茶を植え付けることにより、
 市中の失業者対策および殖産興業に役立てようとしました。
 この政策により、武家地面積の約1割にあたる102万5207坪が
 農地として開墾されました。

 幕末には百万人を超えていた江戸の人口は、
 1869年(明治2年)には、50万3700余人と、半減してしまいます。
 理由は、幕府瓦解によって、俗にいう旗本八万騎が江戸からいなくなったり、
 各藩の武士が帰藩した事などによるものであり、
 都市の人口が急速に縮小したことによって、
 江戸には下級武士、武家屋敷の奉公人などと共に、
 都市に取り残された下層民などの窮民が多く生じていました。
 当時の当局者にとって、
 府下における確かな生業を持たない都市住民の存在は
 それ自体が懸念の種であり、
 こうした住民に何らかの仕事を与えることが求められていました。

 1869年(安政6年)の自由貿易開始にともない、
 生糸および茶は、当時の日本の主要な外貨獲得手段となっていました。
 このような背景から、大木喬任は、
 武家地を農地に転用し、希望する者に貸し付けること、
 また、植え付ける作物として、桑と茶を推奨しました。
 1869年(明治2年)には東京府および日本政府より「桑茶政策」が布告されました。
 また、この政策を実行する機関として物産局が設立され、
 郭外の土地については入札による払下げが行われました。
 また、貸付けや払下げにより得た資金は、
 救貧院の設置をはじめとした都市下層民の救済事業に用いられました。

 しかし、明治2年の冬から翌年の春にかけて、
 桑茶政策により植え付けられた桑・茶の7割から8割が枯死し、
 また、生産された桑・茶が輸出の軌道に乗ることはありませんでした。
 東京の復興が次第に進みはじめたことにより、府内の土地の農園化は、
 都市としての東京が発展する支障となることが予期されました。
 1871年(明治4年)、3代東京府知事の由利公正は、
 植え付け作物の制限を解き、物産局の諸事業を廃止しました。

 大木は、後にその著書の『奠都当時の東京』の中で、
 桑茶政策の失敗を認めています。
 しかし一方で、桑茶政策は、それまで東京(江戸)の面積の多くを占めていた、
 武家以外は居住すら許されなかった地域を、
 経済活動の場へと変容させたとの評価もあるようです。

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ウナギとアリストテレス

2023-08-16 | Weblog
 今年の土用の丑の日は7月30日でした。
 ウナギを召し上がった方も多いかと思いますが、
 僕は高価なので食べませんでした。
 食べられなかったから僻んで言う訳ではありませんが、
 ニホンウナギは、国際自然保護連合 (IUCN) により、
 2014年から絶滅危惧種 (EN) の指定を受けています。

 2019年7月、この年の土用の丑の日を前に、環境省が、
 「食品ロスにならないよう(ウナギを)大事にいただきましょう。
  食べる方はできるだけ予約して、季節の行事を楽しみましょう!」とツイートしたら、
 「絶滅危惧種を食べるのを推奨するのか」との批判が殺到し、
 わずか3時間後に投稿削除に追い込まれた事は記憶に新しいところです。

 ウナギは、海洋で産卵し、2・3日で孵化した仔魚は
 レプトケファルス(葉形幼生)と呼ばれ、
 成魚とは異なり柳の葉のような形をしています。
 レプトケファルスは成長して稚魚になる段階で変態を行い、
 体型を扁平から円筒へ変えて150から500日後に「シラスウナギ」となります。
 シラスウナギは黒潮に乗って日本沿岸にたどり着き、
 川をさかのぼり、5年から十数年ほどかけて成熟してウナギとなります。
 シラスウナギの段階で捕獲して養殖する技術が開発されたのは明治時代でしたが、
 1970年代になって大量生産、安定供給が可能となります。
 天然なら10年以上かけて成魚になるところを、
 僅か半年で急激に太らせて国産ウナギとして出荷されます。
 土用の丑の日に出荷できるように、その半年ほど前にごっそり乱獲されますので、
 ウナギの消費が土用の丑の日に集中しなければ根こそぎ乱獲されることもなくなり、
 種の保存の観点からは、良いのかも知れません。

 ウナギは、ある年齢までは雌雄同体で、30cm以上になると雄と雌に分かれます。
 5~10年の間、淡水生活をしたウナギは、産卵の為に海へ出ます。
 長らく正確な産卵場所は不明でしたが、
 グアム島やマリアナ諸島の西側沖のマリアナ海嶺であることが分かったのは、
 2009年になってからです。

 アリストテレスは、紀元前4世紀のギリシアの哲学者ですが、
 生物学なども含めて幅広い研究を行った人です。
 科学的な解明を優先したアリストテレスは、レスボス島の研究所で魚を解剖し、
 ほとんどの魚の卵と精嚢を確認していました。
 しかし、ウナギだけは、何回解剖しても、生殖器が見つけられませんでした。
 多分、雌雄同体の時期のウナギを解剖したのだと思います。
 ウナギは、卵から、あるいは、胎児として生まれてくるのではなく、
 地球の胎内から即ち土の中から生まれてくると結論付けました。

 アリストテレスなどが研究したウナギは、ヨーロッパウナギです。
 ヨーロッパ中の川に生息していますが、卵や幼魚が見られていませんでした。
 また、学者たちがどれだけウナギを解剖しても、
 卵や生殖器官の特定には至りませんでした。
 レプトセフェリはウナギの幼生だと分かったのは、1896年の事でした。

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浮世絵の元祖

2023-07-29 | Weblog
 浮世絵は、江戸時代に発達した色彩豊かな風俗画の事です。
 現在は、浮世絵は木版画をイメージするかと思いますが、肉筆画もあります。
 一般的には、菱川師宣が風俗画を1枚の独立した絵画作品としたことで
 浮世絵の始祖と呼ばれています。
 師宣は、自らを「浮世絵師」と称していたとの事ですし、
 「浮世絵」が文献上表れるのも、師宣が活躍した寛文から元禄の頃との事です。

 これに対し、屏風絵や絵巻物などで庶民の生活を描いた岩佐又兵衛が、
 浮世絵の元祖とする説があります。
 岩佐又兵衛は、別名浮世又兵衛とも呼ばれていました。
 浮世絵の絵師の伝記を記述した最も古い文献は、
 太田蜀山人が原撰した『浮世絵類考』です。
 これには、岩佐又兵衛について
 「按するに是世にいはゆる浮世絵のはしめなるべし」と、書かれているとの事です。
 又兵衛が描いた舟木本「洛中洛外図屏風」には、
 それまでの屏風よりもはるかに多くの庶民の姿が描かれています。
 
 菱川師宣の代表作の1つが「見返り美人図」ですが、
 これは又兵衛の「湯女図」の影響が感じられます。
 又兵衛の描く庶民の風俗に、師宣が倣ったような感じもします。

 最近読んだ、日本美術史が専門の辻惟雄さんの「岩佐又兵衛」は、
 副題が「浮世絵をつくった男の謎」でした。
 辻さんは、戦国の世に始まる初期風俗画が、慶長末から元和・寛永の頃にかけ
 恐らく又兵衛に主導されて当世風俗画に衣替えしたのが、
 第一期の浮世絵であり、舟木本の屏風が描かれた1614年(慶長19年)が、
 この意味での浮世絵元年に当たると述べています。

 このような浮世絵は、主に屏風絵であり、庶民の手に届かないものでしたが、
 浮世絵を版画にして量産に適した形式に移して、
 庶民の生活の場で愛好されるようにしたのが師宣であり、
 第二期の浮世絵の元祖となったとも述べています。
 又兵衛と師宣とどちらが元祖かと言えば又兵衛であり、
 それが今の美術史の流れだとも述べています。

 僕が最初に岩佐又兵衛の絵を観たのは、
 2011年12月16日、山種美術館の「官女観菊図」でした。
 その時には又兵衛が浮世絵の元祖と言う知識はありましたが、
 観た絵は、浮世絵とは違うなぁと思いました。
 その後観た、舟木本の「洛中洛外図屏風」では、
 細かい庶民の生活ぶりがよく描かれていると感じました。

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応援歌

2023-07-13 | Weblog
 現在、夏の甲子園に向けた各都道府県の予選が盛んに行われていると思います。
 野球の応援には、応援歌が付き物です。
 宇都宮高校の応援歌は、童謡の「花咲爺」の曲で歌います。
  二荒山の神主が 御神籤引いて申すには
  きーっと宇高は勝つ勝つ勝つ

  もしも宇高が負けたなら、電信柱に花が咲き
  焼いた魚が踊り出す 踊り出す

 この歌、旧制中学の頃から歌われていたようですので、
 その頃は「宇高」ではなく「宇中」でした。

 この応援歌、全国に広がっているようです。
 最も有名なのが、プロ野球の広島カープの応援歌です。
 「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには
  今日もカープは 勝ち勝ち勝ち勝ち」
 この「宮島さん」は、宮島の厳島神社を指すのだと思います。
 元は、県立広島商業高校の応援歌だったようです。

 更にこの歌の由来がネット上に出ていました。
 ひろしま郷土史研究会が1982年に発行した「ふるさとひろしま」第4号に、
 渡辺通氏が「野球応援歌『宮島さん』誕生由来記」を書いているとの事です。
 それによると、1897年(明治30年)頃、
 広島県西部に位置する廿日市市の地御前(じごぜん)で、
 青少年がハワイの移民帰りの人に習って野球の試合を始めました。
 1907年(明治40年)頃に他町村との対抗試合で
 「いつも地御前が勝ち勝ち勝ち勝ち」と歌われ、原型ができました。
 1911年(明治44年)夏には
 「宮島さんの神主が~」のフレーズが頭に付け加えられたとの事です。
 童謡の「花咲爺」は1901年(明治34年)に発表されたので、時期は合います。

 新潟県の上中越地方では、
 「妙高山から雲が出た……」と歌っているようで、
 山の名前は地域によって異なるようです。
 柏崎地方の民謡「三階節」では、「米山さんから雲が出た……」との歌詞がありますが、
 新潟県では、三階節からの連想で、
 新たな歌詞が付け加えられた可能性があるようです。

 この応援歌、宇都宮中学だけでなく、
 群馬県の太田中学、茨城県の水戸中学などにもあるようです。
 旧制中学に野球が広まるのと同じ時期に、応援歌も広まったのかも知れません。

 以上、2014年5月22日付の上越ジャーナルの記事を参考にさせて頂きました。

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日本最初の女流写真家

2023-06-23 | Weblog
 先日、栃木市立美術館の開館記念展「明日につなぐ物語」に行きました。
 田中一村の絵画を観るのが一番の目的でしたが、
 そこで、栃木市出身の幕末から明治にかけての画家であり写真家の
 島霞谷(しま かこく)を知りました。
 霞谷は、1827年(文政10年)に生まれ、椿椿山に絵を習った後、
 1856年(安政3年)蕃書調所が設立されると、そこで翻訳に従事しました。
 このころ外国人から写真術を修得し、江戸下谷で写真館を開業しました。
 出展されていた絵画は、写真をやっていたからなのでしょうか?
 極めてリアルな絵でした。
 霞谷は、1870年(明治3年)、44歳で熱病により死去してしまいます。

 霞谷は、隆(りゅう)と言う女性と結婚しました。
 隆は、1823年(文政6年)に桐生市で生まれ、
 18歳の頃、一橋家の祐筆になるため江戸に上ります。
 そこで通訳などの仕事で同家に出入りしていた島霞谷と結婚しています。
 霞谷から写真術を学び、女流写真師として営業していましたが、
 霞谷と死別した後は桐生で開業します。
 このとき、霞谷の遺品など全てを持ち帰ったとの事です。
 上記の展覧会には、隆の写真も出ていました。
 やせ型の意思の強そうな人のように見えました。
 隆は、1899年(明治32年)に死亡しました。

 1988年(昭和63年)に子孫宅の土蔵から、
 隆が持ち帰った霞谷の膨大な遺品の数々がそのままの状態で発見され、
 霞谷夫妻の全貌が明らかになっただけでなく、
 江戸幕末期の状況を多角的に考察できる
 第一級の史料を今日に提供することになったとの事です。

 女性の写真家養成については、
 やはり幕末から明治にかけての写真家である鈴木真一が、
 1902年(明治35年)に、牛込西五軒町に女子写真伝習所を設立していて、
 明治期において、女性に写真術を教える唯一の教育機関であったとの事です。
 そうした事からすると、島隆の先駆性は、特筆すべき事のような気がします。

 霞谷も1869年(明治2年)大学東校の書記官となり、
 そこで教科書を印刷するために独自の鉛鋳造活字を完成させるなど、
 才能豊かな人だったようです。
 霞谷についても、また調べてみたいと思います。

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板倉勝静の脱出

2023-06-05 | Weblog
 先日、岡山県の高梁市に行って来ました。
 現在も備中松山城が残る城下町です。
 幕末、備中松山藩の藩主だったのが板倉勝静(かつきよ)です。
 第6代備中松山藩主板倉勝職(かつつね)に子がなかったため、
 桑名藩松平家より、松平定信の孫を養子に迎えますがそれが勝静です。
 松平定信は、第8代将軍徳川吉宗の孫ですから、
 勝静は吉宗の玄孫になります。
 この事が、勝静が最後まで幕府軍と行動を共にする理由のような気がします。

 勝静が藩主となった頃、備中松山藩は巨額の財政赤字に苦しんでいました。
 それを、山田方谷を登用する事により借金を解消しただけでなく、
 軍備の洋式化を進め、農民を兵士とするなど軍備の改革も行います。
 こうした事が評価されたのでしょう、勝静は寺社奉行に登用され、
 一時井伊直弼と対立して罷免されますが、直弼の死後復帰し、老中に昇格します。
 1868年(慶応4年・明治元年)、戊辰戦争が開始されます。
 鳥羽伏見の戦で、幕府軍が敗退すると、
 徳川慶喜は大阪湾に停泊中の幕府の軍艦に、
 勝静や会津藩主松平容保等をしたがえて乗り込み、海路江戸へ遁走します。

 朝敵となった備中松山藩征討が岡山藩をはじめ中国地方の諸藩に命じられます。
 勝静との音信が絶え、藩主不在の備中松山藩を征討軍が取り囲みます。
 山田方谷は降伏を決め、無血開城しました。

 一方江戸では、慶喜が朝敵とされたことから、勝静は1月29日に老中職を辞し、
 2月19日に逼塞処分を受け、3月には下野日光山に屏居となります。
 さらに新政府によって宇都宮藩に移され、英巌寺の庫裏に軟禁されます。
 英巌寺は、宇都宮藩主の戸田氏の菩提寺です。
 1868年5月11日、(慶応4年4月19日)、
 土方歳三等が指揮した旧幕府軍の前軍は宇都宮城下の南東から攻め入り、
 宇都宮城を落城させます。
 新政府軍に就いていた宇都宮藩は城に放火して退却しますが、
 この戦いの際、旧幕府軍は英巌寺に放火し堂宇はほとんど焼失しました。
 庫裏に幽閉されていた勝静と息子の勝全は旧幕府軍によって救出され、
 勝静はその後旧幕府軍と行動を共にし、箱館まで行きます。

 備中松山藩では、山田方谷が勝静を隠居させた事にし、
 第5代藩主の弟の子である板倉勝弼を新藩主に迎えていました。
 しかし、旧藩主が旧幕府軍にいる事が分かり新政府は態度を硬化させます。
 このため、方谷は、1万ドルという大金を積んで、
 板倉勝静と旧知の仲だった横浜在留プロシア商船長のウェーフに
 勝静連れ戻しを依頼します。
 ウェーフは、箱館に行き、陣中見舞いと称して勝静を船中に招待し、
 乗船後そのまま軟禁して江戸に向かいます。
 江戸に着いた勝静は一連の事実を知って、新政府に自首します。
 勝静父子は、支藩である安中藩に、終身禁固の御預けの身となりますが、
 その後赦免されて、上野東照宮の祠官となり、
 方谷の弟子たちの協力を得て第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の
 設立を行ったりして、1889年(明治22年)、67歳で没しています。

 山田方谷は、岩倉具視から、会計局(大蔵省)へ出仕を依頼され、
 大久保利通や木戸孝充などからも乞われますが固辞して
 残りの生涯を、地元の若い人への教育に捧げます。
 1875年(明治8年)春、備中高梁を訪れた勝静は、
 方谷と会い、永年の感謝を述べ謝罪します。
 勝静は城下から三里離れた方谷の旧屋敷の一軒家を訪れ、
 三泊四日を過ごし語り明かしたとの事です。
 良い話だと思っています。

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鑑真和上像

2023-05-17 | Weblog
 5月10日に、宮城県多賀城市の東北歴史博物館に展示されている
 鑑真和上像を観て来ました。
 今回は、東野治之さんの『鑑真』を読んで、予習して出掛けました^^
 この『鑑真』によると、鑑真和上像が製作されたのは生前だったとの事で、
 僕は、和上の没後、その徳を偲んで弟子たちが製作したものと思っていたので、
 これには少し驚きました。

 鑑真の伝記については、奈良時代後期の皇族で臣籍降下した貴族で文人の
 淡海三船が、『唐大和上東征伝』を著しています。
 これは、鑑真が唐から伴った弟子の思託が著した「広伝」をもとに、
 和上の死後16年に撰せられていますので、その信頼性は高いものとされています。
 これによると、763年(天平宝宇7年)の春、和上の弟子の忍基は、
 唐招提寺講堂の棟梁が砕け折れる夢を見ました。
 忍基は、大和上の遷化が近づいていることだと思い、
 多くの弟子を率いて和上の肖像を造ったと記されているとの事です。

 和上は、763年6月25日(天保宝字7年5月6日)に、
 西に向かって結跏趺坐したまま76歳の生涯を閉じたと伝えられていますが、
 これは菩薩の境地にいる人だけが可能な理想的な亡くなり方でした。
 死して3日を経っても、頭頂にはなお体温があるように感じられたので、
 荼毘に付するのを遅らせたとの事です。

 鑑真和上像は、脱活乾漆造で製作されています。
 これは、粘土で原型をつくり、その表面に麻布を貼り固めたのちに、
 像内の粘土を除去して中空にするとともに、
 麻布の表面に漆木屎を盛り付けて塑形する仏像制作技法です。
 この技法による仏像制作は天平時代(8世紀)に盛んになりました。

 天平時代以後、高僧の肖像彫刻は数多く造られていますが、
 いずれも理想化、象徴化した表現がみられます。
 これに対し、和上像はとてもリアルであり、造形表現に大変特徴があります。
 閉じた眼の左右の大きさははっきり違いますし、
 眉の毛や口辺の髭、まつ毛なども克明に丁寧に描かれています。
 ただし、これらの書き込みは、後世に描かれたとの見方もあるようです。

 鑑真和上像の造像成立の背景には、
 中国唐代の高僧にみられる真身像(ミイラ)やそれから派生した加漆肉身像、
 遺灰像(ゆいかいぞう)が影響しているとの説があります。
 加漆肉身像は、自然にミイラ化するのは難しいので、
 遺骸を麻布で覆い固めて人工的にミイラ化をはかった像です。
 遺灰像は、火葬した死者の遺灰を塑土に混ぜて造る像です。

 1936年(昭和10年)の修理の時に、
 鑑真像の内部の頭部から腹部にかけて
 白い粗い砂が塗られていることがわかりました。
 科学的な分析は行われていませんが、和上の骨灰との見方もあるようです。

 いずれにしても、和上像は、
 ・木屎をへらで造形せず、手の指で形を整えている。
 ・麻布を張った段階で細部まで造形されており、木屎漆の層が大変薄い。
 ・彩色の上から、油を塗布している。との特徴があり、
 これらの技法は、我が国の脱活乾漆像制作技法上類例がないということです。
 そのような点から考えると、
 唐渡来の弟子たちによって、和上像が制作された可能性が考えられるようです。

 1688年(貞享5年)、唐招提寺を訪れ、鑑真和上坐像を拝した際に
 若葉して おん目のしずく ぬぐはばや と詠んでいます。
 また、会津八一は
 とこしへ に ねむりて おはせ おほてらの
 いま の すがた に うちなかむ よ は と詠んでいます。

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九連環

2023-04-25 | Weblog
 江戸時代の音楽文化は、身分制や家元制に縛られた窮屈なものでした。
 庶民の楽器であった三味線を武士が弾いたり、
 虚無僧の法器とされた尺八を百姓町人が吹くことは、許されませんでした。
 そうした中で、享保年間(1716年~1735年)に、清楽が入って来ます。
 清の中国支配が始まり、清国との貿易で長崎には多くの清国商人が渡来し、
 彼らが清国の戯曲や民謡といった民間音楽を伝えます。
 清楽は、例外的に、江戸時代の身分制度から自由であった事から、
 町人も武士も、男も女も、身分の上下や性別を超えて、
 合奏や合唱を楽しむことができました。

 清楽が入って来る前に、やはり中国から、明楽が入って来ていましたが、
 明楽は、宮廷音楽的、雅楽的要素が強かったのに対し、
 清楽は、俗曲の色彩が強く、市井に受け入れやすかったようです。
 清楽の歌詞は中国語で、江戸時代の日本人は、
 中国語の発音をカタカナで写し、これを「唐音」と言って、そのまま唱いました。
 現代の日本人が、ギターを弾きながら、英語の歌を唄うように、
 江戸から明治にかけての日本人も、清楽の楽器である月琴を奏でつつ
 唐音で中国語の歌詞を唄っていました。
 坂本龍馬とその妻の楢崎龍も、月琴の名手であったと言われています。

 清楽の中でも特に有名なのが「九連環」でした。
 九連環は、チャイニーズリングと言われる、古典的な知恵の輪の一種で、
 9個の環から成るものです。
 1820年(文政3年)の春、
 長崎の人が難波・堀江の荒木座で「唐人踊」の興行を行います。
 これは、唐人の扮装をした踊り手が、
 「九連環」の替え歌と、鉄鼓、太鼓、胡弓や蛇皮線などの伴奏で踊るもので、
 その後、「唐人踊」は名古屋や江戸にも広まって大流行となります。
 流行の過熱のあまり、1822年(文政5年)には禁令が出るほどでした。
 その後も庶民の間では、「看々踊」や、
 その歌である「かんかんのう」が歌い継がれます。
 古典落語の「らくだ」には、死人に「かんかんのう」を躍らせる話が出て来ます。

 また、明治から昭和初期にかけて法界屋が門付で、
 月琴などを演奏しつつ歌った「法界節」も、原曲は「九連環」でした。
 「九連環」の歌詞の中で「ホーカイ」という語句を繰り返すことから、
 「ホーカイ節」の呼称が生まれました。(「法界」は当て字です)
 法界節は、一説によると、明治20年ごろ、
 長崎の花街・丸山新地で
 「丸山芸者はなぜ遅い 来るとそのままお雛さん ホーカイ 
  そのくせ気軽に転びます 三味線枕」という法界節が流行り、
 これをきっかけに1年もたたないうちに全国に広まったとの事です。
 この「法界節」を元に、
 後に演歌「新法界節」、「さのさ節」、「むらさき節」、
 新民謡「鴨緑江節」など、さまざまな歌に発展して行きました。

 YouTubeに「かんかんのう」や「九連環」がありましたので、
 宜しければご覧ください。
 https://www.youtube.com/watch?v=J4r1elop6a8

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