5月10日に、宮城県多賀城市の東北歴史博物館に展示されている
鑑真和上像を観て来ました。
今回は、東野治之さんの『鑑真』を読んで、予習して出掛けました^^
この『鑑真』によると、鑑真和上像が製作されたのは生前だったとの事で、
僕は、和上の没後、その徳を偲んで弟子たちが製作したものと思っていたので、
これには少し驚きました。
鑑真の伝記については、奈良時代後期の皇族で臣籍降下した貴族で文人の
淡海三船が、『唐大和上東征伝』を著しています。
これは、鑑真が唐から伴った弟子の思託が著した「広伝」をもとに、
和上の死後16年に撰せられていますので、その信頼性は高いものとされています。
これによると、763年(天平宝宇7年)の春、和上の弟子の忍基は、
唐招提寺講堂の棟梁が砕け折れる夢を見ました。
忍基は、大和上の遷化が近づいていることだと思い、
多くの弟子を率いて和上の肖像を造ったと記されているとの事です。
和上は、763年6月25日(天保宝字7年5月6日)に、
西に向かって結跏趺坐したまま76歳の生涯を閉じたと伝えられていますが、
これは菩薩の境地にいる人だけが可能な理想的な亡くなり方でした。
死して3日を経っても、頭頂にはなお体温があるように感じられたので、
荼毘に付するのを遅らせたとの事です。
鑑真和上像は、脱活乾漆造で製作されています。
これは、粘土で原型をつくり、その表面に麻布を貼り固めたのちに、
像内の粘土を除去して中空にするとともに、
麻布の表面に漆木屎を盛り付けて塑形する仏像制作技法です。
この技法による仏像制作は天平時代(8世紀)に盛んになりました。
天平時代以後、高僧の肖像彫刻は数多く造られていますが、
いずれも理想化、象徴化した表現がみられます。
これに対し、和上像はとてもリアルであり、造形表現に大変特徴があります。
閉じた眼の左右の大きさははっきり違いますし、
眉の毛や口辺の髭、まつ毛なども克明に丁寧に描かれています。
ただし、これらの書き込みは、後世に描かれたとの見方もあるようです。
鑑真和上像の造像成立の背景には、
中国唐代の高僧にみられる真身像(ミイラ)やそれから派生した加漆肉身像、
遺灰像(ゆいかいぞう)が影響しているとの説があります。
加漆肉身像は、自然にミイラ化するのは難しいので、
遺骸を麻布で覆い固めて人工的にミイラ化をはかった像です。
遺灰像は、火葬した死者の遺灰を塑土に混ぜて造る像です。
1936年(昭和10年)の修理の時に、
鑑真像の内部の頭部から腹部にかけて
白い粗い砂が塗られていることがわかりました。
科学的な分析は行われていませんが、和上の骨灰との見方もあるようです。
いずれにしても、和上像は、
・木屎をへらで造形せず、手の指で形を整えている。
・麻布を張った段階で細部まで造形されており、木屎漆の層が大変薄い。
・彩色の上から、油を塗布している。との特徴があり、
これらの技法は、我が国の脱活乾漆像制作技法上類例がないということです。
そのような点から考えると、
唐渡来の弟子たちによって、和上像が制作された可能性が考えられるようです。
1688年(貞享5年)、唐招提寺を訪れ、鑑真和上坐像を拝した際に
若葉して おん目のしずく ぬぐはばや と詠んでいます。
また、会津八一は
とこしへ に ねむりて おはせ おほてらの
いま の すがた に うちなかむ よ は と詠んでいます。
鑑真和上像を観て来ました。
今回は、東野治之さんの『鑑真』を読んで、予習して出掛けました^^
この『鑑真』によると、鑑真和上像が製作されたのは生前だったとの事で、
僕は、和上の没後、その徳を偲んで弟子たちが製作したものと思っていたので、
これには少し驚きました。
鑑真の伝記については、奈良時代後期の皇族で臣籍降下した貴族で文人の
淡海三船が、『唐大和上東征伝』を著しています。
これは、鑑真が唐から伴った弟子の思託が著した「広伝」をもとに、
和上の死後16年に撰せられていますので、その信頼性は高いものとされています。
これによると、763年(天平宝宇7年)の春、和上の弟子の忍基は、
唐招提寺講堂の棟梁が砕け折れる夢を見ました。
忍基は、大和上の遷化が近づいていることだと思い、
多くの弟子を率いて和上の肖像を造ったと記されているとの事です。
和上は、763年6月25日(天保宝字7年5月6日)に、
西に向かって結跏趺坐したまま76歳の生涯を閉じたと伝えられていますが、
これは菩薩の境地にいる人だけが可能な理想的な亡くなり方でした。
死して3日を経っても、頭頂にはなお体温があるように感じられたので、
荼毘に付するのを遅らせたとの事です。
鑑真和上像は、脱活乾漆造で製作されています。
これは、粘土で原型をつくり、その表面に麻布を貼り固めたのちに、
像内の粘土を除去して中空にするとともに、
麻布の表面に漆木屎を盛り付けて塑形する仏像制作技法です。
この技法による仏像制作は天平時代(8世紀)に盛んになりました。
天平時代以後、高僧の肖像彫刻は数多く造られていますが、
いずれも理想化、象徴化した表現がみられます。
これに対し、和上像はとてもリアルであり、造形表現に大変特徴があります。
閉じた眼の左右の大きさははっきり違いますし、
眉の毛や口辺の髭、まつ毛なども克明に丁寧に描かれています。
ただし、これらの書き込みは、後世に描かれたとの見方もあるようです。
鑑真和上像の造像成立の背景には、
中国唐代の高僧にみられる真身像(ミイラ)やそれから派生した加漆肉身像、
遺灰像(ゆいかいぞう)が影響しているとの説があります。
加漆肉身像は、自然にミイラ化するのは難しいので、
遺骸を麻布で覆い固めて人工的にミイラ化をはかった像です。
遺灰像は、火葬した死者の遺灰を塑土に混ぜて造る像です。
1936年(昭和10年)の修理の時に、
鑑真像の内部の頭部から腹部にかけて
白い粗い砂が塗られていることがわかりました。
科学的な分析は行われていませんが、和上の骨灰との見方もあるようです。
いずれにしても、和上像は、
・木屎をへらで造形せず、手の指で形を整えている。
・麻布を張った段階で細部まで造形されており、木屎漆の層が大変薄い。
・彩色の上から、油を塗布している。との特徴があり、
これらの技法は、我が国の脱活乾漆像制作技法上類例がないということです。
そのような点から考えると、
唐渡来の弟子たちによって、和上像が制作された可能性が考えられるようです。
1688年(貞享5年)、唐招提寺を訪れ、鑑真和上坐像を拝した際に
若葉して おん目のしずく ぬぐはばや と詠んでいます。
また、会津八一は
とこしへ に ねむりて おはせ おほてらの
いま の すがた に うちなかむ よ は と詠んでいます。
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