天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

最初の征夷大将軍

2024-03-12 | Weblog
 最初の征夷大将軍は、坂上田村麻呂だと思っていましたが、
 最近、そうではなく、大伴弟麻呂であった事を知りました。
 その辺の事情をまとめてみました。

 征夷大将軍は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す、
 朝廷の令外官の一つです。
 唐名は大樹、柳営、幕府、幕下です。

 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、
 鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍などさまざまにありました。
 また「大将軍」については、下毛野古麻呂、大伴安麻呂、大伴旅人などが
 蝦夷征討以外の目的で任じられました。
 東国や奥州を征伐する将軍としては、
 太平洋側を進軍する征夷将軍(征東将軍)と
 日本海側を進軍する鎮狄将軍(征狄将軍)があり、
 陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官として鎮守府将軍がありました。

 征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つです。
 「東夷」に対する将軍としては、
 709年(和銅2年)に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初です。
 720年(養老4年)には、多治比縣守が持節征夷将軍に任じられ、
 同日、「北狄」に対する持節鎮狄将軍に阿倍駿河が任じられました。
 737年(天平9年)に、藤原麻呂が持節大使に任じられますが、
 「大使」はまた別に「将軍」とも呼ばれていました。

 「征東将軍」の初見は、784年(延暦3年)に任命された大伴家持であり、
 「征東大将軍」の初見は、788年(延暦7年)に任命された紀古佐美です。
 延暦10年(791年)7月13日に、大伴弟麻呂が征夷大使に叙任されます。
 延暦11年(791年)11月に一旦征夷大使の辞表を提出しますが、認められません。
 延暦13年(794年)正月に
 弟麻呂は征夷大将軍として節刀を賜与されたとの記述が、
 『日本紀略』に、「征夷将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うた」とあり、
 「征夷将軍(征夷大将軍)」の初見とされています。
 同年6月には副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げます。
 延暦14年(795年)正月に節刀を返上し、
 その後、蝦夷征討の任務は
 延暦16年(797年)に征夷大将軍となった坂上田村麻呂に代わります。
 田村麻呂は胆沢の蝦夷のアテルイを撃破し、
 捕虜として京へ送るなどの活躍をします。

 しかし、その後の征夷の将軍は、次の文室綿麻呂は征夷将軍に任ぜられ、
 征夷大将軍への補任の例は途絶えました。

 源頼朝は平氏政権や奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始し、
 朝廷へ「大将軍」の称号を望み、朝廷は征夷大将軍を吉例として任じました。
 以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である
 征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が、
 一時的な空白を挟みながら続いた訳です。
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鎌倉幕府の成立年

2024-02-22 | Weblog
 かつて、鎌倉幕府の成立は1192年とされ、教科書にも載っていました。
 この年、源頼朝が征夷大将軍に任命された事を以って
 幕府が成立したとするもので、
 「イイクニ(1192)作くろう鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えた方も多いかと思います。

 しかし、歴史学での鎌倉幕府の成立年は1192年ではなく、
 1185年であるとの説が採用され、その旨記載した教科書もあります。
 ところがそれにも異説があります。

 以下、簡単に諸説を書きます。
 1180年(治承4年)説
 頼朝が侍所(御家人の管轄機関)を設置した年
 この時すでに南関東のほぼ全域を支配下においていました。

 1183年(寿永2年)説
 朝廷から頼朝に対し、東国の支配権を承認する宣旨を出した年
 朝廷が頼朝に東国限定という条件付きですが、支配権を認めました。

 1184年(元歴元年)説
 頼朝が公文所、問注所を設けた年
 これにより、政務、裁判の仕組みが整いました。

 1185年(文治元年)説
 頼朝は諸国に守護・地頭を置く権利を得た年

 1190年(建久元年)説
 頼朝、征夷大将軍よりさらに上の官職である右近衛大将に任命された年
 日本国総追捕使・総地頭の地位も得、諸国守護を恒常的に担う立場となります。

 1192年(建久3年)説
 頼朝、征夷大将軍に任命された年

 この各説を見て来ると、幕府による支配体制は、征夷大将軍に任命されるより前に、
 少しずつできあがっていったと考えられます。
 その中でも、各地の軍事・警察権を掌握する「守護」と、
 年貢の徴収や土地管理を担当した「地頭」を任命する権利を
 頼朝が得たことを最も重視するのが、1185年説です。
 ちなみに、征夷大将軍に任じられた1192年は、
 実質的にできあがっていた幕府の体制が、
 名実ともに完成した年ということになります。

 ある特定の出来事、年代を指して鎌倉幕府が成立したと考えるのではなく、
 段階的に成立していったと考えるのがいまの歴史学の標準的な見解のようです。
 教科書では、特定の年に成立したとは明記しないのが、
 最新の日本史になっているようです。
 

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豆まき

2024-02-04 | Weblog
 季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられていたため、
 それを追い払うための悪霊ばらいの行事が執り行われていました。
 節分に豆まきがいつから行われて来たかは、明らかではありませんが、
 文献が見られるようになるのは南北朝時代以降のことです。
 豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、
 または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を
 鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、
 鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、
 一年の無病息災を願うという意味合いがあるとの事です。
 
 2024年2月2日の下野新聞の「あなた発 とちぎ特命取材班」に、
 節分に何をまく?との記事がありました。
 下野新聞を含む全国10道県の地方紙が合同アンケートを実施した結果でした。
 参加した新聞は、下野新聞のほか、北海道、岩手日報、河北新報(宮城県)、
 上毛(群馬県)、信濃毎日(長野県)、西日本(福岡県)、熊本日日、宮崎日日、
 南日本(鹿児島県)です。
 アンケートは、多様な声を聞き取るのが目的で、
 1月下旬、インターネット上で実施し、2389人が回答しましたが、
 無作為抽出で民意を把握する世論調査とは異なるとの事です。

 「節分でまくもの」(複数回答)を尋ねる質問で、
 落花生が62.2%、大豆が49.3%だったとの事です。
 落花生が多いのに意外な感じがしました。
 地域的には、北海道と東北6県、新潟県、長野県と
 九州南部の熊本県、宮崎県、鹿児島県で落花生を使う人が多いようです。
 数字が出ている所では、北海道、90.4%、岩手91.1%、宮城88.9%で、
 九州南部では、宮崎92.2%、鹿児島87.7%に対し熊本57.7%でした。
 その他の都府県では、大豆をまく人が多かったとの事です。

 栃木県では204人が参加し、
 複数回答の中で「大豆」を選んだ人は89.7%。
 「大豆のみ」に限れば79.9%で、他の地域より割合が高かったとの事です。
 一方、複数回答で「落花生」を選んだのは15.2%、「落花生のみ」だと7.4%でした。
 少数ですが、栃木県内にもあめや小豆をまく人もいたとの事で、
 「その他」と答えた人は、
 小分けパック入りの豆菓子を挙げる人が目立ったとの事です。

 大豆だと小さい事もあって、後の掃除が大変で、
 その点、落花生の方が大きいから、
 踏み潰したりする事が少ないのかも知れませんね。
 いずれにしても、豆ですから効力は同じなのでしょう。

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武市半平太の自画像・・・

2024-01-18 | Weblog
 武市瑞山、通称武市半平太は、1829年10月24日(文政12年9月27日)、
 土佐藩郷士の家に生まれた、幕末の志士で、
 通称の武市半平太と称されることが多いようです。
 黒船来航以降の時勢の動揺を受けて、
 攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成します。
 参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、
 京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、
 京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担いましたが、
 八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、
 前藩主山内容堂によって投獄されます。
 獄中闘争を経て切腹を命じられました。享年37歳(満35歳)でした。

 武市半平太は、徳弘董斎に南画を学び、
 弘瀬金蔵にも師事して画才を発揮しました。
 弘瀬金蔵は、通称の絵金で知られた、幕末から明治初期にかけての絵師です。
 半平太は、美人画なども描いていますが、
 獄中で描いた自画像が有名です。
 この自画像は、厳しい追及を覚悟した半平太が、
 盂蘭盆の休日を利用して三枚の獄中自画像を揮毫し、
 それぞれ妻と姉に送りました。

 現在、ネット上で観られる自画像は、高知県立歴史民俗資料館が所蔵している
 半平太の子孫が寄贈したものです。
 半平太作の漢詩が書かれています。
 花依清香愛  花は 清香に依って 愛せられ
 人以仁義榮  人は 仁義を以って 栄ゆ
 幽囚何可恥  幽囚 何ぞ恥ずべけんや
 只有赤心明  只 赤心の 明らかなる 有り
 
 武市半平太の自画像は、
 もう1点宮内庁の三の丸尚蔵館が所蔵しているものがあります。
 これは、1928年(昭和3年)、土佐藩出身で土佐勤皇党にも加わっていた、
 田中光顕が山水図などともに献上したものです。
 半平太が獄中にいた時描かれたようで、
 やはり獄中で詠んだ漢詩が賛として揮毫されています。
 誰が揮毫したのかは、署名が読めませんでした。
 また田中光顕が取得した経緯なども分かりませんでした。

 燕雀得時擅  燕雀 時を得て 擅(ほしい)ままなり
 蒼鷹向暗眠  蒼鷹は 暗きに向かいて 眠る
 如何幽獄裏  幽獄の裏に 如何せん
 慷慨只呼天  慷慨し 只 天に呼(さけ)ぶのみ

 武市半平太については、暗殺者の黒幕としてのイメージも強いようですが、
 「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」の言葉が 残されていて、
 至誠の人と謳われた西郷に匹敵するほどの誠実な人柄だったことが窺えます。
 他方で、高杉晋作らの過激派からは穏健的と見られたり、
 半平太を切腹へと追いやった山内容堂からは
 視野狭窄といった趣旨の批評もなされています。


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最古の神社建築

2023-12-31 | Weblog
 今日は大晦日です。
 正月になると、神社に初詣に行かれる方も多いかと思います。

 神社は、日本の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設です。
 産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが
 神として祀られています。
 古くから八百万の神と呼ばれるように、日本の神は様々な種類があり、
 そこが神道の特質なのかも知れません。
 文部科学省の資料によれば日本全国に約8万5千の神社があり、
 登録されていない小神社を含めると10万社を超え、
 宗教法人格を有さない小さな祠等を含めると
 日本各地には20万社の神社があるといわれています。

 その中で、最も古い神社と言われているのが、
 奈良県桜井市の大神神社です。
 しかし、その他にも、
 福岡県宗像市の宗像大社
 福岡市博多区の住吉神社
 福岡市東区の志賀海神社
 島根県出雲市の出雲大社
 島根県出雲市の須佐神社
 兵庫県淡路島市の伊弉諾神宮
 滋賀県大津市の日吉大社
 長野県の諏訪大社、などがあります。
 色々な説がありますが、目下のところ大神神社とするのが有力なようです。

 しかし、現存最古の神社建築は、明らかになっています。
 それは、京都府宇治市にある宇治上神社で、
 2004年(平成16年)2月の奈良文化財研究所や宇治市などによる
 年輪年代測定調査では、本殿は1060年頃のものとされていて、
 国宝に指定されています。
 拝殿も国宝に指定されていますが、
 これは鎌倉時代前期の建設です。

 宇治上神社の創建年代などの起源は明らかではありませんが、
 宇治上神社のすぐ近くには宇治神社があり、
 宇治上神社とは二社一体の存在であったと考えられています。
 本殿は、流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、
 一間社流造の内殿3棟が左右に並んでいます。
 (「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味しています。)
 内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、
 右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀っています。

 今年、10月4日に宇治上神社に行って来ました。
 やはり1000年を超える建物は歴史の重みがあるなぁと思いました。

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喧嘩両成敗

2023-12-11 | Weblog
 現在、地球上では、ウクライナとパレスチナで大きな戦闘が行われています。
 ウクライナは領土を巡る争いの様相が強いと思いますが、
 パレスチナに関しては、長い歴史の中での報復の連鎖のような感じがしていて、
 解決の糸口すら見えない状況だと思っています。

 このような状況を見ると、日本の中世後半から近世にかけての法理論である、
 喧嘩両成敗は、長い間お互いが憎しみ合わないための知恵のような感じもしてきます。
 喧嘩両成敗は、口論闘争に及んだ当事者双方を、「理非ヲ謂ハズ」同罪に処します。
 これは、私闘を抑圧するための法理論ですが、
 それぞれの家が報復の連鎖に陥る事を避ける知恵のような感じもします。

 いつ頃から、こうした法理論が生まれたのかハッキリとはしませんが、
 その最古の例は、室町時代初期の文安2年(1445年)4月に
 藤原伊勢守の名前で出された
 「喧嘩口論堅被停止訖、有違背族者、不謂理非、双方可為斬罪、
  若於加担人有者、本人同罪事」とある高札であるとされています。
 当時の人々はやられた分をやり返すのは正当な行為だと考えていて、
 過剰なやりかえしが引き起こす復讐の連鎖が止まらないことが珍しくなかったようです。
 ここでいう喧嘩とは、
 現代でいう少数人数による殴り合いなどの狼藉事件のみを指すのではなく
 本来の字義である「騒動」「喧騒」の意味であり、
 一族や村落を挙げた抗争事件や境界紛争なども意味しています。

 喧嘩両成敗は、室町幕府で成文法として定められた訳ではありませんが、
 戦国時代になると、大名家が定める分国法に取り入れられます。
 今川氏の「今川仮名目録」では
 「喧嘩におよぶ輩は理非を論ぜず双方とも死罪」
 「喧嘩を仕掛けられても堪忍してこらえ・・とりあえず穏便に振る舞ったことは
  道理にしたがったと・・して罪を免ぜられるべき」とあるとのことですし、
 同様の規定は、
 武田氏の「甲州法度之次第」、長宗我部氏の「長宗我部氏定書」にも定められています。
 しかし、分国法に明確に定めているのはこの3氏だけのようです。

 江戸時代には、遺恨のある相手を名指しして切腹することで、
 相手にも腹を切らせる「指腹(さしばら)」という
 喧嘩両成敗を利用した復讐も行われていました。
 こうした風潮は江戸時代前期まで慣習法として継続されますが、
 文治政治への転換の中で、
 「双方それぞれにどんな非があったかを吟味せずに、同罪として処断する」との
 乱暴な運用について、儒学者達からの批判を受けることとなりました。
 しかし、
 「喧嘩においては片方が正しいという事はあり得ず、双方ともに非がある」との
 理屈は分かりやすく、また双方納得しやすいものでした。

 間もなく12月14日になりますが、
 12月14日と言うと、元禄15年12月14日(1703年1月30日)の
 赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件が話題になります。
 この事件、赤穂浪士側は、
 元禄14年3月14日(1701年4月21日)、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、
 江戸城松之大廊下で、高家吉良上野介義央に斬りかかったのは
 喧嘩であるとして両成敗を求めますが、
 幕府は一方的な事件であるとして、
 吉良家に対しては特別な処分を行わなかったのが発端です。
 浅野内匠頭が斬り付けた理由は明らかになっていませんが、
 客観的に見た場合、喧嘩とは言いづらいのではないかと思います。

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源頼家の誕生

2023-11-17 | Weblog
 源頼家は、寿永元年8月12日(1182年9月11日)、
 源頼朝の嫡男として生まれます。
 『吾妻鏡』には、頼家誕生からその後までの様々な記述があるので、
 当時の風習が面白い事もあり、書いてみました。

 養和2年(1182年)2月14日に頼朝の妻の政子懐妊の噂があるとの記述があります。
 3月9日、政子の御着帯があり、頼朝が結んでいます。
 3月15日、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、
 有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督を行っています。
 これが現在も残り今も段葛と呼ばれる参道です。
 7月12日、政子は出産のため、比企能員の屋敷へ移ります。
 千葉小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景李等が御供します。
 梶原平三景時は御産の間の雑事を取り計らうようご命令を受けます。
 8月11日、晩になって、政子が産気づきます。
 このため、頼朝も比企邸に赴き、諸人も集まります。
 御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・箱根両所権現並びに近国の宮社に立てます。
 伊豆山 (走湯権現) 土肥彌太郎遠平
 箱根 (箱根権現) 佐野太郎基綱
 相模一宮 (寒川町の寒川神社) 梶原平次景高
 三浦十二天 (横須賀市の十二所神社) 佐原十郎(三浦義連)
 武蔵六所宮 (府中市の大國魂神社) 葛西三郎清重
 常陸鹿嶋 (鹿島神宮) 小栗十郎重成
 上総一宮 (玉前神社) 小権介良常
 下総香取社 (香取神宮) 千葉小太郎胤正
 安房東條寺 (鴨川市天津の神明神社か) 三浦平六義村
 同国洲崎社 (洲崎神社) 安西三郎景益

 「8月12日、酉の刻(午後6時頃)、御台所男子御平産なり。」との記述があります。
 御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、
 鳴弦役は師岡兵衛尉重経・大庭平太景義・多々良権守貞義でした。
 上総権介廣常は引目役。
 戌の刻(午後8時頃)、比企尼の娘で河越太郎重頼の妻が召されて参入し、
 初めて乳を飲ませました。

 8月13日、若公誕生のため、代々の佳例に従い、御家人等に命じて、
 御護刀を召されました。
 宇都宮左衛門尉朝綱、畠山次郎重忠、土屋兵衛尉義清、和田太郎義盛、
 梶原平三景時、同源太景季、横山太郎時兼等これを献上しました。
 また御家人等が献じた御馬は二百余疋に及び、
 これらの馬を鶴岡宮、相模国一宮、大庭神館、三浦十二天、栗浜大明神以下の
 諸社に奉りました。
 父母の健在な若い武士を選んでお使いとしました。

 8月14日、若君三夜の儀があり、小山四郎朝政これを取り仕切ります。
 8月15日、鶴岡宮の六齋の講演が始められた。
 8月16日、若君五夜の儀があり、上総介廣常が取り仕切ります。
 8月18日、七夜の儀があり、千葉介常胤これをと知り切ります。
 常胤は子息6人を伴い侍所の上に着し、父子で白の水干袴を着、
 秩父大夫重弘の娘で胤正の母を頼家の陪膳としました。
 また進物のあり、嫡男胤正・次男師常が御鎧を担ぎ、
 三男胤盛・四男胤信が鞍つきの御馬を引き、
 五男胤道が御弓矢箭を持ち、六男胤頼が御剣を持ち、それぞれ庭に居並びます。
 兄弟は皆容貌すぐれた勇壮な武者であり、
 頼朝は特に感心し、人々も壮観であると感じました。
 8月19日、若君九夜の御儀がり、外祖(北条時政)が取り仕切りました。

 この他にも記述があるのかも知れませんが気が付きませんでした。
 なお『吾妻鏡』は、寿永元年(1185年)の次は元歴元年正月になっていて、
 寿永2年の1年分の記述が抜け落ちています。
 あるいは、ここに何かの記事があったのかも知れません。

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執金剛神立像

2023-10-31 | Weblog
 奈良の東大寺に、執金剛神立像(しゅこんごうじんりゅうぞう)と言う秘仏があります。
 東大寺法華堂の本尊の不空羂索観音立像の背面の厨子の中に安置されていて、
 厨子が開扉されるのは、東大寺の開山忌である12月16日で1年に1日だけです。
 今年、東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌を記念して、
 10月1日から16日までの間、特別に開扉されたので、観に行って来ました。

 執金剛神は、金剛杵を執って仏法を守護するため善神です。
 金剛杵は、仏の智慧が煩悩を打破する武器であることを象徴しています。
 金剛力士と同じですが、
 金剛力士は密迹・那羅延の2人の裸形姿であるのに対し、
 執金剛神は1人の武将姿として造形安置されるのが一般的です。
 インドではヴァジュラパーニと呼ばれ、造形的には半裸形で表現されていますが、
 中国・日本では、忿怒相で身体を甲冑で固めた武神として表されます。
 その起源はギリシア神話の英雄ヘラクレスであるとされています。
 ヘラクレスは
 「獅子の毛皮を身に纏い、手に棍棒を持つ髭面の男性」の姿で
 表されるのが一般的ですが、インドにおける執金剛神の造形も、それと同様です。

 東大寺法華堂の執金剛神像は、全高173.9cmの塑造で、
 革の鎧を着用して右手に金剛杵を構えた立像です。
 目を見開き、口を大きく開けて怒号しており、
 目には暗緑色の石をはめ込んで生気を持たせている他、
 浮き出した血管や筋肉の表現が奈良彫刻の写実性を表しています。
 静的な天平期の天部像に対して動的で生き生きとした作風の傑作です。
 法華堂の北側の厨子に安置され、年1回だけしか開扉が許されていないため、
 極めて保存状態が良く、金箔・彩色が表面に非常によく残存しています。

 日本霊異記によれば、東大寺が建立される以前のその地にいた
 金鷲行者(こんじゅぎょうじゃ)の念持仏であったとされていますが、
 製作者・製作年代はわかっていません。
 室町時代に書かれた「執金剛神縁起絵巻」には、
 良弁僧正の念持仏とされていて、
 良弁僧正には鷲にさらわれて、奈良の法華堂前の杉の木に引っかかっているのを
 義淵に助けられ、僧として育てられたとの伝説があります。

 立像は、髻を結っている元結の右側、
 風になびく天衣の首の裏側の部分が欠損しています。
 これについては、平安時代につくられた歴史書の抄本『扶桑略記』(1094年)に、
 次のような話が載っています。
 940年(天慶3年)の平将門の乱の動乱の際、
 法華堂の執金剛神像観音像の前に、七大寺の僧が集まって、
 将門調伏の祈祷を行いました。
 すると、数万の大きな蜂が堂内いっぱいに満ちて、
 迅風がにわかに起こって執金剛神の髻の糸を吹きとばしました。
 数万の蜂は髻の糸につきしたがって、東に向けて雲を穿って飛び去りました。
 時の人は皆、将門誅害の瑞祥であると言ったとの事です。

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棟方志功と民芸運動

2023-10-16 | Weblog
 先日、東京の国立近代美術館で開催されている、
 「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」を観て来ました。
 展示された作品の中に棟方の出世作ともなった、
 「大和し美し版画巻」があり、面白いキャプションがありましたので、
 覚えている範囲で書いておきます。

 ご承知の方も多いかと思いますが、
 青森市に生まれた棟方は、洋画家となる事を目指して上京します。
 1926年(昭和2年)、国画創作協会の展覧会で観た
 川上澄生の版画『初夏の風』に感動し、棟方は版画家になることを決心します。

 1934年(昭和9年)、佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで創作意欲を掻き立てられ、
 1936年(昭和11年)に「大和し美し版画巻」を国画展に出品します。
 この作品は、長さが7mほどもある対策で、
 展示について、国画会の事務局ともめました。
 その話を聞きつけた民芸運動の第一人者である柳宗悦が来て、
 この「大和し美し版画巻」を購入する事を即決します。
 当時、柳や濱田庄司などは、新たに日本民藝館の建設を計画していて、
 そこに展示する作品を探していたところでした。
 それ以来、柳は棟方の作品の指導監修にあたります。
 半年後、同館の開館時には新作「華厳譜」が大広間の壁一面を飾ったとの事です。

 これをきっかけに、柳や濱田、河井寛次郎らの
 民藝運動の指導者との交流が始まります。
 棟方は仏教や民芸の世界に傾倒していきます。
 柳は、技法でも棟方志功に影響を与えており、
 棟方の代表的な技法である紙の裏から色づけする「裏彩色」も、
 柳の影響によるものです。
 今回の展覧会にも「大和し美し版画巻」の中の「倭建命の柵」が、
 裏彩色で出展されていました。

 民芸運動と棟方の関係はその後も続き、
 師である、柳宗悦が病床にあった時、
 柳が「偈」と呼び、自らの心境を自由に短い句で述べた歌を、
 棟方の板画とともに描いた「心偈頌」を捧げていますし、
 河井寛次郎、濱田庄司を讃仰し、
 それぞれの窯の名から「鐘渓頌」、「道祖土頌」と名付けられた作品も
 捧げられています。

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追腹一件

2023-09-20 | Weblog
 主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切ったりした場合、
 家来達が後を追って討ち死にしたり切腹したりする風習が戦国時代にありました。
 江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったこともあり、
 自然死の場合でも家臣が殉死をするようになったと言われています。
 1607年(慶長12年)に松平忠吉が病死した際の殉死が最初であるといわれ、
 同年の結城秀康病死後に万石取りの重臣らが後を追いました。
 徳川秀忠や家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死しています。

 4代将軍徳川家綱から5代綱吉の治世期には、
 幕政が武断政治から文治政治へと移行しつつあり、
 1661年(寛文元年)、水戸藩主徳川光圀が徳川頼房への殉死願いを許さず、
 その年には会津藩主保科正之が殉死の禁止を藩法に加えています。
 当時の幕閣を指導していた保科正之の指導の下、
 1663年(寛文3年)の武家諸法度の公布とともに、
 幕府は、殉死は「不義無益」であるとしてその禁止が各大名家に口頭伝達しました。

 ところが、これに反する殉死が宇都宮藩で行われ、追腹一件と呼ばれています。
 1668年3月31日(寛文8年2月19日)、
 宇都宮藩主奥平忠昌が、江戸汐留の藩邸で病死します。
 忠昌の世子であった長男の奥平昌能は、
 忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し「いまだ生きているのか」と詰問し、
 これが原因で杉浦はただちに切腹しました。
 4代将軍徳川家綱の下で文治政治への転換を進めていた江戸幕府は、
 昌能と杉浦の行為をともに殉死制禁に対する挑戦行為ととらえ、
 奥平家に対し2万石を減封して出羽山形藩9万石への転封に処し、
 殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど厳しい態度で臨み、
 これにより、殉死者の数は激減したといわれています。
 殉死の禁止は、家臣と主君との情緒的人格的関係を否定し、
 家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという
 新たな主従関係の構築を意図したものと考えられています。

 余談ですが、忠昌没後14日目に、宇都宮の興禅寺で法要が行われた際、
 奥平家重臣の奥平内蔵允が、法要への遅刻を
 同僚の奥平隼人に責められたのをきっかけに2人が口論となり、
 内蔵允が隼人に斬りつけ、両名が私闘に及ぶという事件が起こります。
 この事件への昌能の裁定に対して、藩士間では不満が渦巻き、
 内蔵允の子の奥平源八らによって
 江戸牛込浄瑠璃坂での隼人への仇討ち事件が起こります。
 この事件は、浄瑠璃坂の仇討と呼ばれ、
 伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と、赤穂浪士の討ち入りと合わせて、
 江戸三大仇討ちと呼ばれています。

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