AKB48『ハイテンション』のカップリング曲に、てんとうむChu!の『清純タイアド』という曲があると知り、真っ先に聴かねばと思っていた。タイトルからして『清純フィロソフィー』の続編で、なおかつ「清純に疲れた」というようなネガティブな楽曲だと予想された。
『清純フィロソフィー』は、清純であることは自己責任で、強制されるものではないと説いた。それまで長く続いていた「恋愛禁止条例」の事実上の廃止宣言だったのだ。実際にその後、ゴシップを報じられたメンバーの多くはそれを「スルー」し、お咎めを受けた事例も聞かない。峯岸の坊主事件があり、国際的にも人権問題という批判を浴びた影響もあるだろう。過去に問題を起こした指原がトップに君臨しているという事実もある。朝井リョウの小説『武道館』では、アイドルが恋愛しても構わないという思想が述べられていた。そういう内外の情勢にも鑑み、AKBグループのファンも、清純だけを求めている訳ではないだろうという仮説の下、「恋愛禁止条例」は密やかに廃止された。
しかしそれは規則や罰則で禁止することを廃止しただけであって、「清純でありたい」という信念を持ち、自己責任でそれを実行せよというメッセージだったと私は解釈している。札幌農学校でクラーク博士がただ1つ定めた校則が「紳士たれ」だったというのと同様、「清純であれ」と求めたのだ。
自己責任というのは罰則で強制されるよりも厳しい規範であって、それを破った時の人気の下落も全て自らが負う、破っても人気が下落しない別の魅力があればそれもよしという、当たり前の世界になったのだろう。
しかし、それは楽曲の中で暗示的に宣言されただけだったので、ファンの認識は分かれた。
依然としてメンバーに清純を求め、ゴシップをスルーするメンバーをネット上で非難するファンは多い。これは『清純フィロソフィー』に込められたメッセージを読み取れていないか、読み取りたくないのだろう。
一方で、『清純フィロソフィー』のリクエストアワーでの1位獲得で峯岸のみそぎが済んだと捉えたファンもいたかもしれないが、それもまた違うと思う。自己責任はいつまでもついて回るのだ。この曲を歌う峯岸はさすがにバツが悪かっただろう。
『清純フィロソフィー』は、クラーク博士ばりに、抽象的に理想を語ったものだったゆえに、人それぞれの都合のいい解釈を招いたのだ。
今回の楽曲『清純タイアド』は、より明示的に、「清純でなくてもいい」という価値観をファンに問うている問題作だ。
清純であろうとしてきたけどもう疲れた、本当はいい子じゃないの、イメージチェンジしたいけど「皆さんいいですか?」とファンに問いかける。ファンに「そんな君も嫌いじゃない」と言わせようとしている。
しかも指原や峯岸や柏木ではなく、清純そのものを体現して来たようなてんとうむChu!の7人が歌っているのだ。小嶋、岡田、西野の3人は『清純フィロソフィー』にも参加しており、自己責任で「清純を守りたい」と歌っていたのに、同じ口で「清純リタイア」と変節を歌わせるとは驚きだ。
『清純タイアド』は、表向きは、いい子を演じて来た少女が殻を破って自由に生きる宣言をしている単なる1つの楽曲だ。てんとうむChu!の7人やAKBグループのことを歌っているとは一言も言っていない。『清純フィロソフィー』もそうだった。でも、どう聴いてもアイドルとしての心情を歌っているように聴こえてしまう。巧みなダブルミーニングだ。
「恋愛禁止条例」という罰則規定も消え、「清純でありたい」という信条さえも捨てたアイドルグループを、ファンは果たして受け入れられるのか。重い宿題が出された。
『清純フィロソフィー』は、清純であることは自己責任で、強制されるものではないと説いた。それまで長く続いていた「恋愛禁止条例」の事実上の廃止宣言だったのだ。実際にその後、ゴシップを報じられたメンバーの多くはそれを「スルー」し、お咎めを受けた事例も聞かない。峯岸の坊主事件があり、国際的にも人権問題という批判を浴びた影響もあるだろう。過去に問題を起こした指原がトップに君臨しているという事実もある。朝井リョウの小説『武道館』では、アイドルが恋愛しても構わないという思想が述べられていた。そういう内外の情勢にも鑑み、AKBグループのファンも、清純だけを求めている訳ではないだろうという仮説の下、「恋愛禁止条例」は密やかに廃止された。
しかしそれは規則や罰則で禁止することを廃止しただけであって、「清純でありたい」という信念を持ち、自己責任でそれを実行せよというメッセージだったと私は解釈している。札幌農学校でクラーク博士がただ1つ定めた校則が「紳士たれ」だったというのと同様、「清純であれ」と求めたのだ。
自己責任というのは罰則で強制されるよりも厳しい規範であって、それを破った時の人気の下落も全て自らが負う、破っても人気が下落しない別の魅力があればそれもよしという、当たり前の世界になったのだろう。
しかし、それは楽曲の中で暗示的に宣言されただけだったので、ファンの認識は分かれた。
依然としてメンバーに清純を求め、ゴシップをスルーするメンバーをネット上で非難するファンは多い。これは『清純フィロソフィー』に込められたメッセージを読み取れていないか、読み取りたくないのだろう。
一方で、『清純フィロソフィー』のリクエストアワーでの1位獲得で峯岸のみそぎが済んだと捉えたファンもいたかもしれないが、それもまた違うと思う。自己責任はいつまでもついて回るのだ。この曲を歌う峯岸はさすがにバツが悪かっただろう。
『清純フィロソフィー』は、クラーク博士ばりに、抽象的に理想を語ったものだったゆえに、人それぞれの都合のいい解釈を招いたのだ。
今回の楽曲『清純タイアド』は、より明示的に、「清純でなくてもいい」という価値観をファンに問うている問題作だ。
清純であろうとしてきたけどもう疲れた、本当はいい子じゃないの、イメージチェンジしたいけど「皆さんいいですか?」とファンに問いかける。ファンに「そんな君も嫌いじゃない」と言わせようとしている。
しかも指原や峯岸や柏木ではなく、清純そのものを体現して来たようなてんとうむChu!の7人が歌っているのだ。小嶋、岡田、西野の3人は『清純フィロソフィー』にも参加しており、自己責任で「清純を守りたい」と歌っていたのに、同じ口で「清純リタイア」と変節を歌わせるとは驚きだ。
『清純タイアド』は、表向きは、いい子を演じて来た少女が殻を破って自由に生きる宣言をしている単なる1つの楽曲だ。てんとうむChu!の7人やAKBグループのことを歌っているとは一言も言っていない。『清純フィロソフィー』もそうだった。でも、どう聴いてもアイドルとしての心情を歌っているように聴こえてしまう。巧みなダブルミーニングだ。
「恋愛禁止条例」という罰則規定も消え、「清純でありたい」という信条さえも捨てたアイドルグループを、ファンは果たして受け入れられるのか。重い宿題が出された。