AKB48 チームBのファンより

鈴木紫帆里さんを中心にAKB48 チームB について語るサイトです。

300人のホールで着席観戦、定期公演をしたアイドル 吉田真里子(ナッキー)

2012-10-21 03:33:16 | アイドルを回想(AKB48を含む)分析系
300人のホールで着席観戦、定期公演をしたアイドル 吉田真里子(ナッキー)

ときめき研究家さんの東京六大学野球応援ミニコミ紙『YELL』にエールを。という記事に、「ファン目線での観戦記や次戦の見どころを掲載した『YELL』を無料で配布している」を読んで思い出したことがあります。

吉田真里子(というアイドル)が、東京FMホールで、月一回の定期コンサートをしていた頃、開場前の列に並んでいると、あるファンの方が、前月のMCを書いた自作の新聞を配布していたことを。
AKB48のメモリスト メンバー観察日記の新聞版のような感じ。

この新聞は、運営(←当時はこういう言い方はしなかったけど)の取り締まりにより廃刊。新聞を書くこと自体は、言論・出版の自由で憲法でも保証されていますが、会場で配布することがNGだったのでしょう。

吉田真里子公式HPの写真を見ると、48グループの中では、森保まどかのイメージ。
吉田真里子 画像をリンクを見ると、中には須田亜香里を思わせる茶目っ気のある表情もあるが、全体的にはおとなしい。
はてなキーワードをリンク以下引用。
吉田真里子 1970年11月19日、兵庫県姫路市に生まれる。
(本名 八十島真里子)
1987年 第6回「ミスマガジン」審査員特別賞
1988年 シングル「とまどい」にて、CBSソニーより歌手デビュー
その後、所属レコード会社・所属事務所との契約終了という憂き目にあうも、インディペンデントレーベル「blue turtle」で地道に活動。その活動期間は、メジャー時代を含めると十年を越える・・・。
2002年、所属事務所の担当マネージャーであり、かつ独立後も変わらずバックボーンとして支えてきた八十島氏と結婚。同時にすべての音楽活動を終了した。
メジャー時代を含め、決して目立つ活動をしなかったにも係らず、彼女の引退後もなお、一推しを公言してやまないファンが少なからず存在するある意味希有なアーティスト。
    
感想:インディーズ時代の吉田真里子はアーティスト的でしたけど、吉田真里子を推していた(←当時はこういう言い方ではありませんでしたが)者としては、彼女は「アイドル」

吉田真里子10年のヒストリー
ファンの回想1
自分が一番多く入ったのが、吉田真里子さんのハートフル・ギャラリーと名付けられたマンスリーのライブ(1990~1992年)。
バックバンドは、ドラムは録音、ドラム以外は生演奏という変則的な編成だったと思います。
持ち歌を全く違うアレンジで歌ったり、時には無伴奏でマイク無し(!)のアカペラで歌ったりと、実験的な要素もある楽しいライブだったのを憶えています。
ファンの回想2
10代でデビューした普通のアイドルがたどる道というのは,結婚して引退か,ヌード出してVシネマか…というコースだけど,彼女のたどったコースはそれとは一線を画していたように思う。次にでた,全曲 珍康化/武部聡志の曲が並ぶ「クレッセント」がでた頃からその辺の雰囲気が現れていた。OREというアイドル雑誌があった頃(このころはTYOという雑誌もありました),彼女は毎月コンセプトライブをやり始めた。300人ほどのホールでやるライブ。それが上述の半蔵門でのライブだったわけ。この後,彼女は自分だけのインディーズレーベルを立ち上げて,全曲自作のアルバムを出し続ける。アイドルがインディーズレーベルを出して活動することも当時は非常に珍しかったこと。今にしてみたら相当先を走っていたということか。

感想:
吉田真里子 300人のホールで着席観戦、月一回の定期公演
AKB48  250人のシアターで着席観戦、毎日の定期公演
秋葉原のシアターで初めて観戦した時の既視感(ひまわり1 デジャビュ)はここに由来する。踊らない吉田真里子と、ダンスパフォーマンスのAKB48という上辺にとらわれて、本質に今日まで気がつきませんでした。ナッキー
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