海軍大臣永野修身 海軍と陸軍と

2018年10月08日 | 歴史を尋ねる
 永野海相は就任まもなく、「海軍政策及制度研究調査委員会」設置を決裁した。当時の海軍は、艦隊決戦に勝つための作戦研究ばかり熱中して、戦争研究はしなかった。サイレント・ネイビーという、小さな、内向性の閉鎖社会に閉じこもり、海軍以外の事物には口も出さず、何の興味も示さずに来た。それが、ここにきて、陸軍の行動が、捨て置けないほどの重大性を帯びて来た。海軍がこれにコミットし、軌道修正しないと、日本がどちらに引っ張っていかれるか分からない。その危機感の産物が、この委員会構想であった。海軍省軍務局が、満州事変以来急に政治的発言力を増した陸軍との折衝に振り回され、手元の仕事がすっかり停滞した。さらに参謀本部作戦課長に栄転してきた関東軍の石原莞爾大佐が、石原構想を掲げ、国防方針までも石原色に塗り替えようとする、これになんとか対抗しなければならなくなった。
 石原参謀は、満州事変を仕掛けた人物、それに成功したので声望が高まり、栄転というより凱旋したという方が当たっていた。「陸軍の対ソ軍備は不十分である。対ソ軍備に重点を置いて、まず北方の脅威を排除しなければならぬ。そのために、海軍と国防国策を一致させ、満州国の育成を強化し、中国と提携する。北方の脅威を排除した後、挙国一致し、東亜団結して、世界最終戦である対米戦争にあたる」 海軍はとびあがった。「軍備というものを、まるで誤解している。陸軍は、戦争することばかり考えている。軍備は、民族の安全を保障するためのものだ。備えを中止するわけにはいかん」 戦争するための軍備と、生存保障としての軍備、その二つの考え方の相違、言ってみれば、ドイツとイギリスの戦争観の違いが、弟子同士の間で表面化した、と吉田俊雄はいう。これには前段があった。

 日本陸海軍の協調が、必ずしもうまくいかなかったことについて、米内は終戦三か月後、米国戦略爆撃調査団の質問に、「私は、根本的なものは、陸軍と海軍の教育方針の相違にあったと思います。陸軍は、十五歳に達しない少年から軍隊教育を始めています。そんな若者の時代から、戦争以外のことは何も教えなかった。広い国際的な視野についての教育に欠けていた。そこに、陸軍将校と海軍士官の考え方に根本的な相違が生じたと信じます。その結果、当然の帰結として、陸軍将校の眼界が馬車馬のように狭くなり、海軍士官ほど広い視野で物事を見ることができなくなります」「政治的影響力についていえば、それは決定的に陸軍の方が強力でした。陸軍は、われわれには分析したり測定したりできない、ある圧力を持っていました」と回想。石原莞爾陸軍中将も、「幼年学校の教育は、おそらく貴族的・特権階級的な雰囲気で、その上、閉鎖的、かつ排他的、独善的なものであった」と述懐する。
 13歳から14歳で陸軍幼年学校に入り、幼年学校3年間、陸軍予科士官学校2年間、そして士官候補生として各師団に分かれて配属され、隊付勤務約6ヶ月、終わって陸軍士官学校に入り約1年10ヶ月を、陸軍初級将校になるための教育に費やす。幼年学校を出ると予科士官学校に入り、そこで一般中学4年修了者で入学試験にパスした者たちと合流するが、幼年学校出身者はわれわれが主流だと自負し、満州事変以来、中央、現地軍の要職にあって活躍した将校たちは、主流派が多数を占めていたという。

 海軍では、海軍兵学校3カ年を終わると少尉候補生になって内海航海、つづいて遠洋航海に出る。帰ってくると、連合艦隊の観戦に配乗して実務練習。終わって少尉任官。
 比較して大きな違いは、陸軍は社会をほとんど知らぬ13、4歳の少年期から約7年間も、世間とは全く絶縁された特別の環境、雰囲気の中で、軍人教育、訓育という特殊な教育を続けた事である。海軍の場合は、それが社会を余計に知った17,8歳から始まり、期間も3年余りで、内地航海、遠洋航海を7,8カ月、その間に日本各地からオーストラリア、ニュージーランド方面、南北アメリカ方面、地中海、ヨーロッパ方面のうちどの方面かの国々を巡り、国際社会と日本について、膚で感じるように学ばされる。二十歳を越えたばかりの青年たちにとって、日本という国を代表する軍服を着た外交使節として、その国と礼砲を交換しながら訪れる感激、未知の国々の未知の人々の家庭に招かれて、美しい善意にひたる感動は、筆紙に尽くしがたいものがあった、と吉田。
 海軍が草創期から模範としたのは、イギリス海軍であった。教官として来日したアーチボルト・ダグラス海軍少佐は、「士官である前に紳士であれ」というイギリス海軍士官教育方針を兵学校教育に導入した。紳士であるための人間教育が大切だ、と力説した。
 そして陸海軍の将校たち、海軍でいえば軍令部、海軍省、連合艦隊の重要ポスト、陸軍でいえば参謀本部、陸軍省、現地軍の重要ポストのほとんど全部を、海軍大学校、陸軍大学校の卒業生が占めた、では海大、陸大はどんな教育、どんな人物を作り上げたか。

 まず海大。兵学校の江田島移転の年に創設された。創設にあたり、イギリス海軍のジョン・イングルス大佐を教官として招いた。海大は、将官になるための登竜門として創設され、陸大のように参謀を養成するところではない。学校、学生の管轄が海軍大臣の所轄で、陸大は参謀総長の統轄下にあった。陸大の学生は、それまで陸軍大臣の管理を受けていたが、陸大に入ると自動的に参謀本部の人間になり、人事もそっくり参謀総長が引き取り、掌握する。参謀ははっきりしたエリート・グループを作り、昇進して指揮官に任じられるまでは、大部分が参謀をやらされ、ドイツ陸軍流の参謀部、統帥部の独立のすがたが、思想的にも制度的にも確立されていた。海軍はイギリスの学んだので、参謀はあくまでも指揮官に対する補助者であり、スタッフはラインに干渉してはならないと考えた。ラインにアドバイスするが、命令はしない。平戦時を問わず、いつも指揮官先頭で、東郷平八郎連合艦隊司令長官は、戦艦戦隊の一番先頭に立って全艦隊を引っ張った。自ら現場の第一線、敵から最も狙われる、従って敵がもっともよく見える位置にいて情況を判断し、適宜適切に命令を全軍に発し、戦勝を勝ち取る。だから海軍では、指揮が部隊の末端まで行き届く、部下に勝手な行動はさせないし、また部下もしない。命令系統、指揮系統をやかましくいい、静粛を大事にするのは、確実、正確、迅速の命令や号令を伝え、行動を起し得るような環境づくりをするためであった。海軍は寡黙であることが尊重され、世間からサイレント・ネイビーなどと言われたのは、しゃべり上手は軽薄である、寡黙こそ重厚、としつけられた。ただこの沈黙が、陸軍要路のエリートたちと向き合い、おなじテーブルについて議論をたたかわせねばならなくなった時、日本を開戦に導く因子をはらんだ。
 海大では、そんな空気のなかで、入学試験をパスした少佐、または大尉から、真面目で職務に精励する勤務優良な者を選んで学生にした。教育機関は2年間、大学校教官も豪傑肌の大言壮語組や個性の特に強い者は選ばなかった。カリキュラムを見ると図上演習と兵棋演習による作戦研究と演練に費やされた。作戦研究ばかりに偏りがちであった。なぜそんなことになったか。当時日本海軍は世界第一の先進海軍であったイギリス海軍のすぐれた技術(造艦、造兵、造機の技術と海軍の経営・管理技術、作戦研究のプログラム)を、どん欲なまで吸収した。しかし、イギリス海軍をそのようにあらしめているイギリス国、イギリス国民に対しての歴史的位置づけ、風土、国是といった、バックグラウンドを見落としていた。イギリス海軍は、長い歴史の中で、国民から深く信頼され、敬愛され、政治家も国防と国運の隆盛を得るために海軍の果たすべき役割の重要性をよく承知していた。だからイギリス海軍は、戦闘技術を磨き、作戦研究に没頭してさえすればよかった。海軍は国土の保全と共に、海外との通商が確保されていなければならない。そのためには制海権の確保の維持、確保のための経費を進んで負担した。海洋国民であった。日本海軍は、時間的、空間的に広い視野から存在理由を考え、国土と海上交通を確保する海軍政策を明確に打ち出すわけではなく、艦隊決戦で敵に勝つ一点張りであった。更に明治15年に出された政治に関わらずとの勅諭、シーメンス事件での海軍への批判であつものに懲りてなますを吹く状態だった。

 次は陸大。陸軍はドイツ(プロシヤ)に範をとった。ドイツは陸軍国だった。考え方は軍国主義的、武力戦中心主義的であった。イギリス海軍の場合と違って、いつも陸軍は自分の存在を主張していなければならず、いつも政治的態度をとっていた。戦略の研究、計画、実施は、軍人が独占して国民に渡さなかった。この点でも、自由主義的空気のなかで、政治家や国民が海洋政策や海上戦略についてオープンに論議を戦わせたイギリスの場合と違っていた。そして、日本陸軍の兵術思想をさらにユニークなものにしたのが、明治18年来日したドイツ陸軍参謀少佐クレメンス・メッケルであった。メッケルは近代ドイツ陸軍の父と云われた参謀総長モルトケ将軍の後継者、と目された傑出した参謀将校であった。メッケルは、さっそく陸軍の軍制をドイツ式に改めた。モルトケ将軍の打ち立てた新しい参謀制度を取り入れ、陸軍省、教育総監部、参謀本部ぼ三本柱とし、モルトケが強く主張してドイツ政府と対立していた統帥部の独立を、日本で実現するための軌道を敷いた。
 メッケルの戦術教育の核心は、「最後の勝敗を決するのは精神である」という精神第一主義で、「人間の作ったもので絶対に破られない防御陣地はない」とする攻撃型戦術であり、のち、日清、日露両役を勝ちえた斬新有効な戦術でもあった。メッケルの流れをくむ陸大教育は、太平洋戦争中も続けられた。なかでも陸軍参謀の気質、能力を決定した戦術教育は特筆に値した。陸大の戦術教育では、教官対学生の討論が重視された。原則に立ち、情況を与え、その情況と原則から指揮官としての決心と処置とを導き出し、その過程で学生の判断力と応用能力を錬磨する、さらに教官と学生が一対一で黒白がつくまで徹底的に突き詰めていく。教官は、いくらでも情況を困難なものに出来るから、この一対一は白熱するとすさまじいものになる。学生は脳細胞を総動員して必死に抵抗する。どんなに追い詰められても、即座に正しい決心と処置が得られなければならない。「苛酷な戦場で、耐ええないような困難な情況に逢っても、指揮官たるもの、心理を動揺させてはならず、冷静沈着、思考力、判断力、実行力にいささかも狂いがあってはならない」 陸大はこの戦術教育を終戦まで力を入れていた。
 このような教育を受け、抜群の成績を挙げた、優秀で議論達者の陸大出身者が、中央や現地軍司令部に参謀職として顔を揃えたのだが、その結果はどうだったか。二度にわたって陸大の校長をした飯村穰中将は、「メッケルの学風を尊重するにやぶさかではないが、振り返って見ると、一つの弊風を残した。それは、白を黒と言いくるめる議論達者であることを、意思強固なりとして推奨したのではないか。そして、わが国の伝統である以心伝心などは、はっきりしないと排斥された。私はこの陸大の、弁護士養成のためのような教育に疑問を持ち、武将は聞き上手になるべきであり、議論上手になってはいけないと、常々思っていた。私は、議論上手を陸大で養成した結果が陸海軍の疎隔となり、幾多の小英雄を輩出して大東亜戦争の開戦ともなり、敗戦の一因になったと見ている。実直ではあるが頑固なドイツ人の気風ややり方を、そのまま日本の風土に移し植えた陸大に、その禍根があったのではないか」

 そしてもう一つ、と吉田俊雄は話を進める。決定的な問題は、陸軍は作戦目標を対ソ戦に絞って重点形成をしており、陸大も対ソ戦法の研究に余念がなかった。真面目に対米戦争を意識したのは昭和15年ごろ、近衛内閣が対米交渉に入った時代であった。対米戦の重点である物量戦、航空戦に対する研究は必ずしも充分でなかった、にもかかわらず、対米英戦争開戦を主張し、煮え切らぬ海軍を叱咤し続けたのはなぜか、吉田は疑問を提起する。議論達者な陸大出たちにまくし立てられ、白を黒と言いくるめられて、口下手で議論下手の、寡黙を尊び、サイレント・ネイビーをモットーとしてきた海大出が、どう対応したか、対応し得たか、海軍がカウンター・バランスとして、どこまでの強力なチェック機能を発揮することが出来たであろうか、と吉田はいう。
 そう考えると、海軍の中にも構造的なものではないとしても、海大出が多数を占める中央に、情況的な問題があった。海軍では海大出もそれ以外でも人事は海軍大臣が握っており、参謀将校というマークはつかない。ところが現実問題として、海大出には赤レンガ(霞が関の海軍省・軍令部の建物)が多かった。昭和17年11月、海軍省人事局長が「これでは海軍全般の戦力発揮がうまくいかない」と、前線の作戦部長に人材を急いで出せと局員に命じた。また、「計画人事」によって軍令、軍政どちらも同じ人物をくり返し配員して色をつけすぎ、そのために視野を狭くさせ、軍令は軍政知らず、軍政は軍令を知らない一知半解のスペシャリストを作ってしまった。中将、大将になり、世界の中に日本、日本の中の海軍を見る視点から判断しなければならないにも関わらず、依然として狭い視角から見、海軍を見て日本を見ず、日本を見て世界を見なかったスペシャリスト大将、狭視野大臣が居たのも、原因はそんなところにあった、と吉田俊雄。もう一つの問題は、海軍省軍務局、軍令部作戦部といった日本の進路を決定する最重要部局の中心的ポストに、同じような性格性向、意識見解を持つ者が集まったこと、ともいう。米内・山本・井上三羽烏の重石がとれると、親独派になった海軍中堅どころがたちまち圧力を強め、上司を突き上げて親独政策に引っ張り込み、三国同盟締結、対米強硬策、仏印進駐を手始めとする南進政策、対米英開戦にまで行ってしまった。そして、それを阻止し、あるいは軌道修正をしなければならぬ上司―――大臣、次官、軍務局長は、サイレント・ネイビーの申し子のような寡黙、口下手な学者か頭脳明晰で情況適応力にすぐれた官僚軍人であったりして、米内、山本、井上のような不退転の哲学も信念も重量も、持ち合わせていなかった、と。