米内光政海軍大臣 上海事変

2018年10月28日 | 歴史を尋ねる
 当時海軍は、揚子江を含む中国沿岸警備(居留民保護と権益の保持)にあたっている第三艦隊(旗艦は上海に停泊する「出雲」)への支援を連合艦隊に命じた。一方、米内海相の指示で、翌29日、第三艦隊司令長官長谷川清中将は、「日本海軍は不拡大方針を守り、慎重な態度をとっているから、中南支の排日運動を取り締まってもらいたい」と、国民政府海軍部長と軍政部長に申入れた。中国海軍は、長谷川の申し入れをすぐに応じ、中南支で事故を起さないように努力中であると回答してきた。揚子江流域の都市からの居留民引き揚げは、何のトラブルも起らず、ウソのように無事に上海に集結できた。
 だが、引き揚げが終わった8月9日、上海特別陸戦隊中隊長大山勇夫と斉藤一等兵が、車で本部に向かう途中、中国保安隊に射殺された。この頃、上海にいた日本軍は、特別陸戦隊が約四千人、それが中国軍約三万人に取り囲まれ、孤立無援、情勢は時間と共に悪化した。長谷川第三艦隊長官は、大臣と総長に立て続けに緊急信を打ち、増援部隊の急派を訴えた。伏見軍令部総長官は、いまや外交交渉の成り行きを見守る時期ではなく、陸軍部隊を一刻も早く救援に送るべきだと考え、米内海相に意向を打診した。米内は「外交交渉は進行中であり、先行きどう実を結ぶか予想できませぬが、これを促進させることが重要であります。また上海付近で中国側が停戦協定を蹂躙したという確証がありませぬ。もうしばらく様子を見たいと思います。停戦区域に中国正規軍はいません。トーチカや塹壕などは、かれらの防衛のための準備です。わが居留民に危害を及ぼすような事態になりましたならば、すぐに出兵します。しかし陸軍の事情は、対ソ戦を考えますと、青島、上海方面に使用できる兵力はそれぞれ一個師団しかなく、熱河省方面で後方を撹乱される恐れもあります。上海方面への陸軍部隊の派遣は、この辺も十分考えたうえで決行しなければならぬと考えます」と。そのころ軍務局長であった豊田副武中将は、「絶対に不拡大だ。陸兵を出せば、必ず拡大する。陸兵派遣絶対反対」と陸軍不信をぶつけるのとは、ニュアンスが違っていた。しかし、軍令部が計画する海上兵力の戦場水域への緊急配備は認めた。海上兵力は、情況が変われば命令一つですぐに撤収できる。しかし陸軍部隊はそうはいかない。

 出先の外交機関は、とくに漢口の場合、居留民を引き揚げるよりも、まず海軍の陸戦隊や艦艇を引き揚げろと言う。海軍の艦艇が揚子江にいるから中国側を刺激して抗日行動を起させ、居留民を引き揚げさせねばならぬほどの窮地に追い込まれる。中国官憲は居留民の生命財産は保障すると約束しているから、心配無用だという。また、参謀本部第一部長石原莞爾少将も、「海軍が揚子江に艦隊を持っているから戦火が上海に飛び火する。もともとこの艦隊は、中国がまだ弱かったときに置いたもので、今日のように中国が軍事的に発展して来れば、居留民保護などできないし、いくさになれば揚子江に浮いてはいられないはずのものである。それを軍令部は、事変突発前に艦隊を撤退させることが出来なかったため、事変後撤退するときに漢口の居留民まで引き上げさせてしまった。これで揚子江沿岸地域が何ごともなくすんだのでは海軍の面子が立たない。・・・」とは『海軍の面子が立たないから揚子江沿岸でひといくさ起させようと、陸軍を引きずって海軍が上海出兵をやらせた』と上海出兵が決定されたころ批判している。名指しされた海軍はビックリ、居留民の保護と権益保全の任務を与えられている海軍は、さっさと引き揚げるわけにはいかなかった。
 だが、12日午後、中国正規軍一個師団が上海駅に到着、黄埔江河口の呉淞と上海市内に進出してきた。情況一変である。日本政府は、翌13日、急ぎ陸兵の上海派遣を決定した。が、上海では、市内の中国正規軍が、もう陸戦隊に銃撃を加えて来た。翌14日、中国空軍機が海軍特別陸戦隊本部、黄埔江上の旗艦出雲、呉淞沖の各艦などを爆撃した。中国機の空爆を見て米内海相は、即座に剣をとって立ち上がった。中国正規軍が攻撃を加えたばかりか、上海周辺の海軍の艦艇や陸上拠点が、奥地から飛んでくる中国空軍機の爆撃を受けるようになった以上、戦いは中支に拡大して本格化した、と判断した。日本がとって来た局地化、不拡大主義はこれで消滅した。この上は、敵撃滅に全力を上げることが日本のとるべき国策ではないか、と強調した。そして杉山陸相に、「日中全面戦争となったからは、南京を攻略するのが当然だ。使用兵力については、いろいろあるだろうが、主義としてはそうでなければならんだろう」と。急に主戦論に変わった米内に、陸相は驚いた。
 米内の豹変の理由を、長谷川第三艦隊長官の対応で分かると吉田俊雄はいう。12日の中国正規軍の上海到着で、戦勢の急転重大化を予測した長谷川は、これに中国空軍が大挙して出てきたら一大事になると判断し、機先を制して中国空軍を無力化して置かねばならぬと決意した。情報によると、中国空軍は、南京、句容、広徳、南昌、漢口、杭州などに、相当の兵力を展開していた。12日深夜、中央から、「敵の攻撃あらば機を失せず敵航空兵力を撃滅せよ」との命令が届いた。13日から16日、中国軍と陸戦隊との陸上戦闘は激烈を極めたが、逆に中国空軍から先制攻撃を掛けられた長谷川長官は、14日前飛行機隊に反撃を加えよと号令を出した。あいにく東シナ海に960ミリバールの低気圧があり、空母の発着艦が出来ず、陸攻隊も渡洋爆撃が出来なかった。中国機のいる内陸飛行場は、低気圧の影響をほとんど受けなかった。我慢しきれなくなった長谷川は、天候の回復も待たず全飛行隊に攻撃命令を出した。

 この三日間の陸攻(中攻)隊の被害はすさまじかった。九機が還らず、飛行機の半数以上が喪失または作戦不能になった。中央は血の気を失った。中攻隊は、西太平洋にアメリカ艦隊を迎撃して艦隊決戦する、日本の存亡を賭した日米決戦で、劣勢6割の日本海軍を勝たせる秘蔵の秘密兵器、それを海軍の戦場でもない中国で失ってしまっては、国防の基盤を揺るがす大問題である。軍令部は担当参謀を台北に飛ばせ、一連空司令官に「もう少し攻撃の手をゆるめ、被害を出さぬよう」提言させた。現場指揮官戸塚道太郎少将は「とんでもない。たとえ全兵力を使い尽くしても攻撃の手は緩めない」 すでに開戦が決意された以上、圧倒的な兵力を集中してどこまでも敵を追撃し、これを撃滅するのが軍隊の任務ではないか、と。
 吉田はいう。軍令部はおかしい。勢いに乗せられて不拡大主義を捨て、全面戦争に突入しながら、実は、懲らしめるために猛烈な一撃を加え、加えればたちまち相手は膝を屈して、和を乞うて来る。そこらあたりまでしか考えていなかったのではないか、と。

 さらに吉田は、この懲らしめるという発想と姿勢が問題だったと、掘り下げる。相手を懲らしめる、という考え方は、自分は正しいことをしているのに相手がよこしまなことをするから、正義に名において相手を懲らし、痛い目にあわせ、それに懲りて二度と同じことをしないようにさせようとするものである。しかし、これは、強大国が弱小国を一方的に意に従わせようとして力を振るう場合に使われる胡散臭さを持っている。満州事変、北支事変が始まるとき以来の陸軍の論理、ひいてはジャーナリズムの論理がそうであった、と。排日侮日いたらざるなき暴支を膺懲するというのは、この論理をアメリカが日本に使ってきたから、ややこしくなった、と。満州事変突発後、フーバー大統領の下で国務長官をしていたスチムソンが、門戸開放、機会均等を旗印にして、日本政府に抗議した。しかし陸軍は、そんなことを頓着せず、膺懲の師をどしどし進めた。
 スチムソン国務長官は、これをアメリカにたいして、というより彼個人の威信を失墜させようとする挑戦とうけとめ、即刻、暴日を膺懲せよと大統領に進言した。が、フーバー大統領は戦いを好まず、膺懲の師は出されなかった。スチムソンにとって、これは骨髄に徹する遺恨であった。それ以来彼は対日不信と憎悪をいよぴよ募らせ、のちにルーズベルト政権の陸軍長官に返り咲くと、日本を膺懲すべしと声高に主張しつづけ、もっとも強硬な主戦論者として、大統領を日米開戦にいたる軌道に引きずっていく、と吉田俊雄はいう。

 昭和12年12月13日、首都南京がおちた。上海を制圧するために派遣された新鋭の大部隊だったが、第一次上海事変の司令官白川陸軍大将と違って、こんどの軍司令官ははじめから南京まで行くつもりで来ていた。その十日ほど前、蒋介石はトラウトマン独大使を仲介として、日本が提示していた条件で和平を受諾しようと申入れて来た。和平への絶好の機会が転がり込んで来た。参謀本部はさっそくこれを推進しようとしたが、南京陥落の翌日の閣議がひどいことを決めてしまった。それまでの和平条約をひっくり返し、蒋介石政権が受諾できないほどの強硬なものに変えたのであった。南京は、包囲したまま兵を停め、城内に突入せず、中国の面子を潰さないように和平を結ぶのが良い、中国人の立場を考え、かれらの面目が立つようにしながら和平の実をとろうとする含蓄のある提案もあったが、強硬派の感情むき出しにした激しい怒声にかき消された。和平は潰れた。
 南京をやれば、蒋介石は参る、と公言していた武藤章参謀長や中堅参謀たちの予想は外れた。外れたというが、それでは、誰が責任を取ったか。蒋介石は事前に首都を重慶に移し、徹底抗戦を宣した。