海軍大臣米内光政 盧溝橋事件

2018年10月21日 | 歴史を尋ねる
 太平洋戦争に至った日本海軍の指導者の蹉跌と題して、吉田俊雄は五人の海軍大臣時代を振り返っている。海軍大臣がいかに行動したかという本の題名だが、内容は陸軍がどう行動したか海軍側からの見方がつづられている。なかなか当事者としての行動が見えてこない。陸軍に引きずられているといえばそれまでだが、一方の当事者としての明確な考え方がなかなか見えない。太平洋戦争での米軍との戦いの主力は海軍の筈だ。ポツダム宣言受諾を巡る豊田副武軍令部総長の言動に当事者としての考えを表明しない、その理由を求めて、吉田俊雄の著書に辿り着いた。海軍予算取りだけは陸軍と同額の要求をずっとしてきた海軍が、なぜこうも当事者としての見解を表明しないのか、もう少し歴史を追いかけてみたい。

 広田内閣総辞職のあと、組閣の大命は宇垣一成陸軍大将に降下した。国民も政党も財界もこれを大歓迎したが、陸軍は、宇垣が首相になったのでは石原構想を実現できなくなると思い込み、石原をはじめ若い将校たちが死に物狂いの抵抗をした。「すでに林銑十郎陸軍大将や近衛文麿公爵が石原プランを鵜呑みにする条件で待機している時に、保守勢力の代表である宇垣大将が総理となって、革新の歯車を逆転されてはたまらない」と言い立てて、永野・寺内の置き土産、軍部大臣は現役大・中将とする、という規定を盾に取り、内閣に陸軍大臣を送ることを拒否した。宇垣は憤激した。「大命をおかすものではないか」となじったが、陸軍はすでに満州事変で大命を犯していた。二・二六事件もそうであった。宇垣の抗議が聞かれるはずはなかった、と。ふーむ、この時の世論、新聞はどうしていたのか、未だ報道規制は無かったろうに。二・二六事件で震え上がったか。
 宇垣内閣流産のあとを継いだ林銑十郎内閣は、猛烈な不人気で、三カ月で倒壊した。そして昭和12年6月、陸軍待望の第一次近衛内閣が誕生、海相には米内、次官には山本が留任する。さらに井上成美が軍務局長に就任、当時の海軍ベストメンバーがそろった、陸軍の突進に立ちはだかった、と吉田。

 日本の命取りとなった日支全面戦は、近衛内閣成立約一カ月後の7月7日だった。6年前の満州事変の発端が、関東軍の謀略によるものであったため、盧溝橋の場合も同じだと思われがちだが、第三者の立場で日支双方を調査した北平大使館付武官と北平特務機関補佐官それぞれの報告からすると、その付近に配備されていた宋哲元麾下の第二十九軍の一部が誤って発砲した偶発事件の可能性がもっとも大きいという。発砲直後、中国軍指揮官が必死にその発砲をやめさせようとしていたし、撃たれた日本軍第三大隊は、夕食後の、夜食の用意もせず、鉄カブトももたず出かけていたこと、又中国軍との衝突を避けよという命令が小部隊にも徹底していたことなどの理由が挙げられている。第三大隊はその時一発の反撃もせず、隠忍自重して営舎に帰った。大隊長は一木清直少佐。彼は五年後、米軍が反攻を開始したガダルカナルに、飛行場奪回のため第一陣として乗り込み、不意に、戦車に包囲されて自決を遂げる。それが米軍大反攻の序幕になったことを思うと、この人にまつわるなにか因縁めいたものさえ感じる、と吉田俊雄。

 吉田は重要なこととして、この時期の中国の抗日運動の高まりと国共合作による抗日戦に全力集中するようになったこと、しかし日本軍、政府、国民は、明治の日清、日露戦争の頃の中国と中国人に対する認識がほとんどそのまま、このような時代の変化を洞察する明を持たなかった、と言っている。
 その夜、営舎に帰った一木大隊は、翌8日午前三時半ごろ、こんどは作戦行動を命じられて出勤したが、そこで第二回目の射撃をうけた。牟田口廉也第一連隊長は、攻撃前進を命じた。「協定違反をこれほど重ねるなら、もう容赦できん。断固膺懲の一撃を加えて猛省を促す。それが事件を拡大させないためのもっとも有効な手段だ」 そこへ作戦指揮のために河辺正三旅団長が駆けつけて来た。 「敵はともかく、日本軍だけにはあくまで協定を厳守させる。不拡大方針に徹する」と決意を固めていたが、来てみると牟田口大佐は連隊命令を出していた。兵もすでに行動を起していた。それを知ると河辺少将は、黙り込んだ。黙ることは、協定厳守の方針を捨てることになるが、それでも彼は黙り続けた。「協定厳守と断固膺懲とは見解が違っているが、いま連隊命令を撤回させ、部隊を引き返させることは、高級指揮官としてとるべき策ではなかった」とあとで河辺は説明した。
 政治(ここでは不拡大方針)よりも作戦(ここでは攻撃前進・拡大)が優先さるべきだと、陸軍、とくに青年将校はそう確信している者が多かった。中央で耳にタコができるほど不拡大方針を聞かされて着任して来た新しい関東軍司令官香月清司中将も、河辺と同じ考えだった。陸軍省軍務課長柴山兼四郎大佐は戦後の述懐に言う。「軍はもとより政府の方針として不拡大ということになっていたが、軍中央部内、ことに青年将校にはこれにあきたらぬ者が相当多数であった。とくに参謀本部にこれが多かった。作戦情報などの実務者の多数がこの方針に反対なのであるから、すべてが方針通りに進まぬ。当時この不拡大方針にもっとも忠実であったのは、参謀本部では多田次長、石原第一部長、河辺虎四郎大佐などであった。しかし満州事変以来、全軍に拡がって来た下剋上の思想は、軍中央部にもっとも甚だしく、意図の徹底など容易なわざではなかった。いまにしてこれを見れば、国家崩壊のきざしが、ここにも歴然と現れていた」と。

 石原は満州に飛んで、軍司令部で事件不拡大を説いた。しかし幕僚たちは、石原の戦争論より、さしあたり北支に入り、さらに中国全土を奪取することに興味を持った。「満州事変で閣下のやられた方策に学び、なお足らざるを憂えている情況でありまして」、石原を冷かしているような受け答え。たまりかねて内地に戻った石原は陸軍大臣室に乗り込み、「このさい、思い切って北支にあるわが部隊を一挙に山海関の満支国境までさげる。そして近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石とひざ詰めで日支の根本問題を解決すべし」と。冷ややかに梅津美治郎次官が応じた。「実はそうしたいが、貴公は総理に相談し、総理の自信を確かめたのか。北支の邦人多年の権益財産を放棄するのか。満州国はそれで安定し得るのか」と。
 近衛首相は、はじめのうちは、石原案に乗り気であった。そのうち「相手とうまく話をつけても、それをそっちのけにして現地軍が勝手な行動をしたのでは、総理の面目がまる潰れになるだけだ」という者があり、紆余曲折の末、この案は捨てられた。

 米内海相の考えは、はじめから不拡大、局地的解決であった。事件二日後、杉山陸相は師団派兵を提議、米内は反対した。「内地から派兵すると、全面戦争を誘発する恐れがある。派兵の決定は、もっと情勢を見きわめ、さらに事態が窮迫してからにしたい」 この米内の意見にほかの閣僚全部が賛成したので、派兵は見送られた。さらに二日後、五相会議で陸相は出兵を提議した。それでも米内は同意しなかったが、5500人の天津軍と北平、天津地方の日本人居留民を皆殺しにするのは忍びない、是非とも出兵させてくれと頼んで来た。米内も、しぶしぶながら、同意せざるを得なくなり、五個師団の派兵が決まった。
 では拡大派は何を考えていたか、吉田は推測する。彼らは拡大することが事件を早く終わらせる結果になる、と確信していた。杉山陸相は、出兵の声明をすれば、それで中国はおびえ、戦意を失い、問題はすぐに解決すると考えていた、と。武藤章軍務課長も、南京をとれば蒋介石は参るといい、参謀本部作戦課の案では、第二十九軍の掃蕩には約二カ月、中央軍の戦意を失わせるために南京方面に重圧を加える作戦は、三、四カ月で終結させることができるといった、と。
 蒋介石が公式に明らかにした『最後の関頭演説』は7月19日であった。中国軍のこの事変に対する覚悟を表明し、この演説は、事変解決のための日本に対する最後の忠告でもあった、と蒋介石秘録で蒋介石は説明している。政府は、軍部は知っていたのか、知らなかったのか。当然外務省は情報を得ていたと思われるが、日本側の歴史に記されたものがあまりない。日本の先々を左右する参謀本部の実態は、当時の日本を取り巻く各国の戦略(国共合作、ドイツ軍事顧問団の中国軍強化とドイツ製武器の装備、米英の対日戦略等)を前にすると、あまりにもお粗末、これが戦後の反省点で、陸海軍学校の教育の問題が取り上げられた由縁であろう。

 陸軍の統制の乱れ、いわゆる下剋上の風潮の広がりに、吉田は現地軍の目を通してもう少し詳細に分析する。国と国とが条約を結び、その条約によって権利が与えられ、その権利を行使して駐屯している軍隊である、といっても、所詮は中国民衆という広大な海に浮いている小舟にすぎない。現地軍が、膚で感じて恐れているのは、一か所の崩壊が、北支の崩壊ばかりか、満州にも及び、今日までに営々と築き上げてきたものを、二十万を超える在留邦人の生命財産ぐるみ、根こそぎ手放さなければならなくなることであった。それが、日とともに現実のものになろうとしていた。これは、外から侵された経験を持たぬ日本人にとって、鳥肌が立つほどの恐ろしさであり、理性の平衡を失わせるほどの衝撃だあった。日清、日露戦争後の、政情が安定しない中国では、排日、抗日どころではなかった。外国との国交調整は、外務大臣の任であるが、陸軍中央の急進派や現地軍信光見方からすると、出先外交機関は中国側といざこざを起すまいとすることに重点を置きすぎ、陸軍のいい方によれば、国家観念がなかった。現地の陸軍は、外交不信を募らせた。だから、満州、北支についても、外交機関を無視して外交問題を処理した。防共協定の発端と同じだ。広田外相は、いちいち陸軍の意向を確かめないと、仕事ができないまでになった。陸大の戦術教育は、教官がまず情況を与え、その枠の中で、目的をどんな手段で達成するのがもっともよいか、それを決めるための判断力を一途に鍛錬してきた。しかし今の場合は、情況そのものを改善する必要があった。だが、かれらはそれに慣れていないばかりか、無頓着でさえあった。そのような教育を受けて来た軍人たちが、現実に政治を支配し、外交を動かしたら、どうなるか。結局、武力による解決に走ろうとするのは、いたって当然ではなかったろうか、吉田俊雄はこう振り返る。
 7月28日、北支で、第二十九軍(宋哲元軍)にたいする総攻撃命令が発せられた。7月9日以来、全面戦争に備えて軍の再編を急いでいた蒋介石は、7月19日、廬山で演説し、「今日の北平がもし昔日の瀋陽(奉天)になれば、今日の冀察(河北省)もまた昔日の東四省(満州)となろう」と民族の蹶起を促した。

 言い換えれば、28日の総攻撃によって火ぶたを切った北支事変は、満州事変のように、戦場が局地にだけ限定されるのではなく、中国全土に拡大する必然性を持っていた。はじめから、民族戦争の性格を持っていたが、それを陸軍は、どう判断していたのだろうか、と吉田は疑問を投げかけてこの節は終了している。

 

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