日本軍が紅軍の危機を救った!

2016年10月10日 | 歴史を尋ねる
 1887年生まれの蒋介石(毛沢東は4年後生まれ)は、1907年渡日して東京振武学校で訓練を受けた後、1909年大日本帝国陸軍に勤務、1911年まで高田連隊の野戦砲兵隊の将校を務めた経験がある。1911年10月辛亥革命が勃発すると、帰国して革命に参加。1923年、孫文は蒋介石をモスクワに行かせ、ソ連赤軍の軍制視察をさせるが、コミンテルンは蒋介石を大歓迎しながら、コミンテルンに加入するよう執拗に蒋介石を勧誘した。またソ連は中国における一切の特権を放棄するとは言っているものの、いたるところでソ連の領土的野心が見えた。コミンテルンはきれいごとを言うが、実は国民党を利用して中国共産党を強大化させようと目論んでいることを見抜いた。蒋介石は帰国後すぐに孫文に進言したが、孫文には入れられなかった。1924年1月の第一回全国代表大会で、孫文の要請によりコミンテルンの代表が国民党の最高顧問になった。また国民党の中央候補執行委員に共産党員の毛沢東が選ばれ、ますます不信感を抱いた。ただしこの大会で軍官学校の設立が決議され、蒋介石が軍官学校校長兼広東軍総司令部参謀長に任命された。しかし黄埔軍官学校の学生募集の段階で、コミンテルンは周恩来や葉剣英など幹部候補生を送り込んできた。蒋介石が心血を注いだ軍事教育機関も、共産党員に占拠されそうになり、蒋介石の警戒心は益々高まった。

 1925年3月孫文が死去すると、孫文ヨッフェ宣言による国共合作は「政府:汪兆銘、ぐん:蒋介石、労農階級組織:中国共産党」の三つに分裂する傾向を呈した。5・30事件と称せられる労働争議が上海で起きた。上海の日系資本の製綿会社で起きた暴動で共産党員が死亡、これをきっかけに列強の租界行政に対する不満が爆発全国各地に広がった。これに対して北洋軍閥とその背後にある日本軍が弾圧を加えたので、全国規模のゼネスト運動に発展した。この後毛沢東は汪兆銘主席の下に駆け付け、宣伝部長代理、中央候補執行委員に選ばれたのは記述済み。
 軍を掌握したものが勝つ。これは中国の歴史の鉄則、コミンテルンは蒋介石を警戒した。1926年3月国民党海軍所属の軍艦が広州の沖合に現れると、蒋介石は自分を拉致してソ連に連れていく陰謀と察知し、艦長(共産党員)をはじめ、共産党員やソ連の軍事顧問関係者を逮捕、広州市に戒厳令を布いた。蒋介石は国民党の会議で「党務整理案」を提議、それにより共産党員は国民党執行機関で部長クラス以上の職位についてはならないとなった。汪兆銘ら国民党左派は毛沢東ら共産党員とともに反蒋介石を提唱し政府を武漢に移して執務をしていたが、この党務整理案が可決により、毛沢東は宣伝部長代理を離れ、汪兆銘と離れた。
 1926年6月、国民革命軍総司令に任命された蒋介石は、7月本格的な北伐を宣言、翌27年3月南京に入場すると、いきなり南京の民衆が日本を含む外国領事館や居留民を襲撃、南京事件の発生だった。蒋介石の評判を落とそうとしたコミンテルンの陰謀だった。この一連の動きを見た蒋介石は、中共勢力が政権を奪還しようとしていると感知し、4月上海クーデターを起こし、中共勢力を武力で粛清、中共側及び労働者側は惨敗した。毛沢東は中共の軍事力の無さを痛感、同時に労働者階級だけを相手にしていてはダメだ、中国人民の圧倒的多数を占める農民を味方につけなければならないと自覚、武力強化と農村に根拠地をという毛沢東の戦略が始まった。

 1927年6月、1年前に北伐を宣言した蒋介石は田中義一首相の第一次山東出兵などもあり、これ以上の北伐をあきらめ、南京防衛に留めた。7月、これまで中共に協力的であった国民党左派の汪兆銘武漢政府は、中共の背後にコミンテルンがあり、ソ連の野心のために中共が動かされていることを知ると、突然中共と手を切った。しかし打倒蒋介石のスローガンを捨てなかった。コミンテルンは南京事件を策謀したあと、打倒蒋介石のスローガンを掲げて、8月南昌蜂起させた。中共軍の建軍記念日は、現在もこの8月1日としている。蜂起軍は国民革命軍第二方面軍として、国民党内部の武力を一部接収していた。南昌の公安局長は朱徳でのちの中華人民共和国元帥、国家副主席となった。8月13日、蒋介石は嫌気が差して自ら辞職、その後田中義一首相と会談をしたが記述済みである。
 政界復帰の要望に押されて28年1月、蒋介石は国民革命軍総司令に復職、一気に北伐を完遂させようとした。田中内閣は、第2次、第3次山東出兵をするが、蒋介石はそれを縫いながら北伐を続け、奉天閥の張作霖を追いつめた。ところがこのとき張作霖爆殺事件が起きた。張作霖の息子・張学良は、父親が最後に残したとされる「日本軍にやられた」という言葉を知り、国民党の蒋介石と協力関係に動いた。これをもって、蒋介石の北伐は完了したと見做し、国民党による中国統一が一応完成したとしている。尚、国民党は時期によって首都が移動し、広州政府(孫文。1925~26年)、武漢政府(汪兆銘。1927、1937~38)、南京政府(蒋介石。1927年^37年、1946年~48年)、重慶政府(蒋介石。1937年~46年)と政府名を区別している。

 一方中国共産党は1927年8月、湖北省漢口で緊急会議を開き、政権は銃口から生まれるをスローガンに武力強化を決定、さらに銃口を牛耳るのは党であるとして、「党指揮槍」を党の基本とした。現在の中国でも軍は党の指揮下にある。中共中央委員会の管轄下に中共中央軍事委員会があり、その主席は中共中央の総書記が兼ねる。今は習近平が中共中央総書記であるとともに中共中央軍事委員会の主席である。この基本精神は1927年の「八七会議」で打ち立てられて以来、100年近く変わっていない。このときまだ軍事力など全くないのに、中共軍が各地で武装蜂起を起し、国民党軍と戦った。毛沢東も27年9月、5000人ほどの工農革命軍を率いて秋収起義を起して失敗している。10月に江西省の井岡山(せいこうざん)に逃げ、1000人ほどになってしまった敗残兵と共に山に身を隠そうとするが、井岡山には「山の掟」があった。そこは早くから農民自衛軍が樹立されており、山の大王がいた。毛沢東は警戒する大王を熱心に説得、最終的には毛沢東らを迎え入れた。井岡山革命根拠地は毛沢東が最初に切り開いた革命の聖地としてドラマや映画に登場するが、その陰には、一万人に及ぶ謎の大量殺戮、大粛清が潜んでいた。この一連の殺戮事件を、南京大学の教授だった高華氏が論文を書き、毛沢東が江西ソビエト地区を固め、瑞金に中華ソビエト政府を樹立するための権力基盤づくりのためだと結論付けていると、遠藤氏。この事件により毛沢東は、恐怖によって周りを従わせる帝王の道を学んだ。敵(日本)を倒すのではなく中華民族を殺し、特に革命に貢献した共産党員の仲間たちを処刑して自らの突出した権威を維持して行こうとする手法は、彼の生涯を通じて一貫している、と。
 農村革命根拠地という戦略により、毛沢東は農村における勢力範囲を拡大させ、地主や富農の土地を没収して貧農に分配するという土地革命を実施して行った。貧農にとって、地主に逆らったからには命はない、後戻りのできない状況に立たされながら、中共軍に参加して行った。まさに命がけだった。遠藤氏は、恐怖という心理を利用したものであったと、いう。

 この時点で、中共軍を中心としたソビエト区革命根拠地は全国に10ヶ所以上にまで広がった。コミンテルンは当初ヤドカリ方式をとっていたが、やがてソビエトと名乗れ、その軍隊を中国工農紅軍と解明するよう指示している。のちに中国人民解放軍の核心部分を形成する。1930年2月、江西省の瑞金を首都として中華ソビエト共和国創建に関する草案が決定された。コミンテルンの指示で、中華民国の中にコミンテルンをトップとする共和国を創るもので、紙幣の発行や銀行、軍や警察、病院や学校など、行政機能と社会生活機能を創るものであった。国の中に国を創る、しかもコミンテルンが管轄する、そんなことを許してなるものか、蒋介石はすぐさま紅軍を殲滅すべく、1930年12月、革命根拠地に対する包囲掃討作戦を始めた。第一次掃討作戦は10万人の国民党軍を投入した。しかし戦った相手は朱徳率いる紅第一方面軍で、殲滅することが出来なかった。1931年4月第二次掃討作戦には20万人の兵を投入、それでも殲滅出来ない。コミンテルンは当初、国共合作で日本と戦わせようと考えていた、しかし国共合作が決裂した今、共産圏の国を作るしかない、そのために武器支援を続けた。7月第三次掃討作戦に蒋介石は30万人の兵士で猛攻を行った。さすがに紅軍は大きなダメージを受け、毛沢東まで陣頭指揮に当たり苦戦した。この戦いはさらに20万人の兵士を増強し、50万人体制で紅軍を殲滅しようと作戦を練っていた。もう一歩のところで、満州事変が起きた。紅軍は救われた。日本軍が紅軍の危機を救った!。

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