毛沢東 盧溝橋事件前後

2016年10月22日 | 歴史を尋ねる
 蒋介石が解放された翌月(1937年1月)、早速中共側から国民党側に打電があり、「兵士5万人を保留し毎月50万元の軍費を支払ってほしい」旨の要求があった。紅軍は壊滅寸前で経費的にも限界に来ていた。蒋介石は、1万5千人以上の兵士を持つことは許さないと返答したが、結局押し問答の末、2万5千人で妥協し、毎月20万~30万元の軍費を蒋介石が中共側兵士に支給することが決定した。当時ソ連のスターリンは、ドイツやイタリアで台頭するファシズムへの対抗措置を講じなければならず、コミンテルンが中共にお金を支給するような経済的ゆとりがなくなっていた。そのため国民党と合作させ、国民党の禄をはみ、国民党に養ってもらう中で、中共軍が拡大して行けばいいと考えていたと遠藤誉氏。「日本軍と蒋介石を戦わせて共倒れさせ、共産革命を成功させる野心」が着々進んだ、と。西安事件直前の36年12月7日、毛沢東は朱徳に代わって中央革命軍事委員会主席に正式に就任していた。

 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中の撃戦が始まった。中国ではこの事件を「七七事変」と称している。日本軍支那駐屯軍第三大隊および歩兵砲隊は、前日6日から軍事演習を行っていた。北京市内にも異様なほど日本軍の戦車が押し寄せ、ただならぬ雰囲気が漂っていた。夜間演習中に「中国軍が実弾を発射した」と日本側、中国側は日本軍側の陰謀と主張。明白なことは、日本軍が他国にいて戦争が始まったことだ。盧溝橋事件の第一報が入ると、毛沢東は「災禍を引き起こすあの厄介者の蒋介石も、ついにこれで日本と正面衝突さ」と言い、張聞天は「抗日戦争がついに始まったぞ、これで蒋介石には、我々をやっつける余力がなくなっただろう」といって喜んだという。1938年4月まで延安にいた紅第四方面軍の軍事委員会主席・張国燾が『我的回憶(我が回想)』で詳細に記録していると遠藤氏。

 1937年8月22日、中共中央は陝西省洛川で中共中央政治局拡大会議(洛川会議)を開催、「中国共産党抗日十大綱領」を決議発布した。その内容は、日本帝国主義を打倒せよ、抗日のために民族は団結せよ、といった中華民族のナショナリズムを掻き立てるものであった。しかしこれはあくまでも人心掌握のための宣伝文句であって、「日本軍との正面衝突を避けよ」という命令が出されていたことを、多くの元中共指導者が伝記に記している、と。先に引いた張国燾の回想録に中で、毛沢東は「敵の力が集中しているところを避け、手薄なところを攻撃する。吾々の主要任務は八路軍の実力を拡大することである。敵の後方で中共が指導するゲリラ根拠地を創ることが肝要だ」「愛国主義に惑わされてはならない」「前線に行って抗日の英雄になってはならない」など、具体的な毛沢東の言葉を記録している、と。他の元中共指導層の回想録も同様に、「抗日戦争の間は正面に出て日本軍と戦ったりせず、小さなゲリラ戦をやっては大きく宣伝し、いかに中共軍がすばらしいかを人民に浸透させる。それにより広範な人民を中共側に付け、抗日戦争の間は中共軍が強大化することを第一の目的とする。日本が敗退したら一気に国民党軍を打倒し新中国を誕生させるという、深い革命理念を持たなければならない」ということだとも遠藤氏。確かに、表面に現れた時系列の歴史的事実を見るだけでなく、こうした側面(歴史を動かした人物の当時の深い考え)から見ていくと、歴史的事件がもっともっと生々しく、ダイナミックに目の前に現れてくる。

 洛川(らくせん)会議の初日、蒋介石は元紅第一方面軍を「国民革命軍第八路軍」と定めたことが発表された。以後「八路軍」と呼ばれるようになり、「新四軍」(南方8省にいた元紅軍)と共に、日本敗戦後の国共内戦後半期に「中国人民解放軍」と改称されていく。その他「満州国」内には東北抗日連軍がいて、第一路軍、二路軍、三路軍などに分かれていたが、この系列はコミンテルン配下に金日成など、やがて現在の北朝鮮を形成する部隊なども含んで複雑なものであったという。
 八路軍が陜北を出発しようとした時、毛沢東は八路軍の幹部を集めて次のように指示した。(内容は極秘命令が出ていたが、八路軍から逃げ出した元幹部がのちに口外した)
 中日の戦いは、我が党の発展にとって絶好の機会だ。吾々が決めた政策は70%は我が党の発展のために使い、20%(国民党との)妥協のために使う。残りの10%だけを対日作戦のために使う。もし総部と連絡が取れなくなっても、以下のことを守るように。その1:(国民党との)妥協段階。服従しているふりをする。三民主義を唱えているように振舞うが、実際は我が党の生存発展を覆い隠す。その二:競争段階。2,3年の時間を使って、我が党の政治と武力の基礎を築き、国民政府に対抗、破壊できる段階に達するまで、戦いを継続。同時に国民党軍の黄河以北の勢力を消滅させる。その三:進撃段階。華中地区に深く入り込み根拠地を創って、中央軍(国民党軍)の各地区における交通手段を遮断し、孤立して連携が出来ないように持っていく。我が党の反撃が十分に熟成されるまで行う。そののち最後の国民党の掌中から指導的地位を奪う。

 この時代、互いに裏切り、寝返り、欺き、スパイなどという言葉では表現しきれないほどの諜報活動が国共両軍ともに渾然一体となって展開されていた。特に国共合作していたから、互いに相手の戦略を把握していなければならない。上記の情報は1977年「対日抗戦期間中共統戦策略之研究」が発表され、そこには引用文献があった。遠藤氏はさらにその引用文献の一次資料を追いかけるとその資料の著者は蒋介石自身であった(その著書は1962年国防部史政局による編纂であった)。そして、1940年8月、彭徳懐・八路軍副総指揮官が百個の団を組織して日本軍と真正面から戦い、日本軍の補給網に多大の損害を与え、大きな戦火を挙げた。のちに日本軍の対支派遣軍総司令官となる岡村寧次対象も、八路軍の強さに驚き、彭徳懐を高く評価した。しかし毛沢東は彭徳懐を激しく非難し、新中国誕生後、1959年の廬山会議で粛清されのちに獄死した。粛清のきっかけは1958年から毛沢東が始めた大躍進政策を批判したためとされているが、毛沢東の恨みは、何十年もため込んでおいてから、残忍な形で晴らされる、と。
 

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