遠藤誉著「毛沢東 日本軍と共謀した男」 

2016年10月03日 | 歴史を尋ねる
 遠藤 誉氏は、日本の女性物理学者、社会学者、作家。1941年、満州国新京市生まれ。日中戦争終結後も日本の独立回復まで中国で教育を受けた。国共内戦を決した長春(新京)包囲戦を体験。1952年、日本へ引き揚げ。1961年、東京都立新宿高等学校を卒業し、1975年、東京都立大学大学院理学研究科博士課程単位取得。1982年 東京都立大学の理学博士として、「モデル流動相における速度自己相関関数の分解の密度依存性 」を発表。以降、千葉大学、1993年から2001年まで筑波大学 物理工学系(留学生センター) の教授などを歴任。『卡子』は、満州での脱出行の体験を基に執筆されたが、 山崎豊子の『大地の子』が『卡子』の盗作であるとして提訴。 自論を主張する『卡子の検証』まで上梓したが敗訴。表題の著書は新潮新書のオファーからようやく執筆、昨年11月刊行された。ブログ主はBSフジ「プライムニュース」に出演した時、はじめて知ったが、共産党系の歴史的情報が限られる中、極めて貴重だ。本書の見開きに「私は皇軍に感謝している」・・・。日中戦争の時期、毛沢東は蒋介石や国民党軍の情報を日本に売り、巨額の情報提供料をせしめていた。それどころか、中共と日本軍との停戦すら申し入れている。毛沢東の基本戦略は、日本との戦いは蒋介石の国民党に任せ、温存した力をその後の国民党潰しに使い、自分が皇帝になることだった、と。歴史書を超えて小説の世界に入るきらいがあるが、こちらは冷静に耳を傾けたい。
 
 中国人民は、日中戦争中、毛沢東が率いる中国共産党軍こそが日本軍と勇敢に戦い日本を敗戦に追いやったと教えられてきた。その間、国民党軍は本気で戦おうとしなかったとして、国民党軍を率いる蒋介石を売国奴と位置付け、ののしって来た。台湾との平和統一が必要になった1980年代以降になると、ようやく国民党軍も少しは戦ったと修正、最近では国民党軍も中共軍とほぼ同様に日本軍と戦ったとするドラマが制作されるようになった。それでも2015年9月に盛大にも催された「中国人民抗日戦争勝利と世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典」に見られるように、日中戦争において中共軍がいかに勇猛果敢に戦ったかということが基本に位置付けられていた。自己評価は時間の経過に逆行して高まるばかり、だから中国人民解放軍の軍事パレードを大々的に行った、と。ウム、国内向けプロパガンダに留まらず、世界の指導者を呼んで祝ったことは、世界に向けても発信し続けている、ということになる。ウィキペデアを見ると、国家元首、政府指導者、高位政府代表、国際組織等代表、行進参加国などが詳細に綴られている。ドイツやイタリアも高位政府代表を送っている。招待した方もした方だが、歴史的事実は2番目だということだろう。遠藤氏は次のように繋ぐ。
 もしその中共軍が実は日中戦争時代、日本軍とはあまり大きな戦闘は行っておらず、それどころか日本軍と真正面から戦っている国民党軍を敗退させるべく、日本軍と共謀していたとしたら、どうだろう。中国は中共軍が日本軍を打倒したことによって誕生したとする神話が崩れるだけでなく、習近平政権の基軸も揺らぐだろう、と。毛沢東が最大の敵としたのは国民党の蒋介石である。毛沢東は、国民党軍に出来るだけ正面から日本軍と戦わせ、機が熟したら、消耗しきった国民党軍を叩き自分が中国の覇者になろうと計算していた。そのため1939年、毛沢東は潘漢年という中共スパイを上海にある日本諜報機関「岩井公館」に潜り込ませ、外務省の岩井英一と懇意にさせた。岩井英一は潘漢年から国民党軍に関する軍事情報を貰って、その見返りに高額の情報提供料を支払っていた。最も驚くべきは、潘漢年が毛沢東の指示により、岩井英一に「中共軍と日本軍の間の停戦」を申し込んでいた。

 毛沢東は1936年に西安事件(中国では西安事変)を起して蒋介石を騙し、国民党軍が中共軍を叩けないようにしておいてから、国民党軍の軍事情報を日本側諜報機関に売っていた。毛沢東の密命により、潘漢年接触したのは外務省系列だけでなく、当時の陸軍参謀にいた影佐禎昭大佐とも密会し、汪兆銘傀儡政権の特務機関とも内通していた。すべて中共軍との和議を交渉するためだった。
 1949年中華人民共和国が誕生してまもなく、毛沢東の個人的な意思決定により、潘漢年を逮捕投獄、売国奴としてその口を封じられたまま、1977年獄死した。名誉を回復されたのは死後5年経った1982年。すると潘漢年を知る多くの友人が、無念を晴らすため、情報を収集して、出版にまで及んだ。日本側資料としては岩井英一自らの筆による回想録も1983年出版された。毛沢東の戦略はあくまでも、天下を取るために政敵である蒋介石率いる国民党軍を弱体化させることにあった。そのためには日本軍だろうと、汪兆銘傀儡政権だろうと、どことでも手を結んだ。この戦略は毛沢東の「帝王学」であることを認識しなければならない、と遠藤氏。毛沢東が信奉したのはマルクスレーニン主義ではなく、マルクスレーニン主義を利用した「帝王学」だった。毛沢東にとって重要なのは人民ではなく、党であり、自分だった、と遠藤氏は手厳しい。

 中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあった。そこには毛沢東の命令を受けた中共側の寥承志と潘漢年らが勤務しており、駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一(特務工作)と協力して、「中共・日本軍協力諜報組織」のようなものが出来上がっていた。寥承志は中華人民共和国が誕生すると、各種業務を担当し、日本の高崎達之助と協力して、1962年に中日長期総合貿易覚書に調印するなど、戦後日本とも深く関係した人物だ。当時の日中貿易を頭文字をとってLT貿易と称した。寥承志を文化大革命の時以外投獄されなかったのは、日本側との接触が密でなかったためと、彼は東京生まれで早稲田大学に通い、日本人顔負けの日本語力を持っていたからだろうと推察している。
 1956年、毛沢東は遠藤三郎元中将らを中南海に招待し、「日本の軍閥が我々中国に侵攻したことを感謝する。あの戦争が無かったら、私たちはいまここにいない。その戦争があったからこそ、まかれた砂のような人民が団結出来た」といった。その後、多くの訪中日本人が毛沢東に会うたびに謝罪をするので、毛沢東は嫌気がさし、「皇軍に感謝する」と連発しながら「過去の拘らない」考え方を一貫して主張した。毛沢東は「南京大虐殺」に関して触れたがらず、教育現場でも基本的に教えていない。「南京大虐殺」が中国の教科書に載り始めたのは、毛沢東の逝去後、改革開放が始まってからであった。毛沢東時代と比べると、様変わりした。その転換点をもたらしたのは江沢民の愛国主義教育だった。江沢民の父親は日本が指揮する汪兆銘傀儡政権の宣伝部副部長であった。その出自がばれそうになったので、江沢民は愛国主義教育を反日教育の方に傾け、自分がいかに反日であるかを中国人民に見せようとした。毛沢東の深い策謀など知る由もない。それが現在の中国の若者たちの反日感情を煽り、胡錦濤政権、習近平政権もまた「親日政府」「売国政府」と人民に罵倒されないために、対日強硬策を演じている。毛沢東は生きている間、ただの一度も「抗日戦争勝利記念日」を祝ったことがない。それを祝うことは蒋介石を讃えることになると明確に認識していた。抗日戦争勝利記念日を全国レベルで祝い始めたのは、やはり江沢民であった。習近平政権が歴史カードをより高く掲げる背景は、アメリカを中心として形成されつつある対中包囲網を切り崩したい狙いもある、と。遠藤氏の語る近代中国の歴史観は大局的であり、極めてリアリステックな捉え方をしている。

 

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