番外編2 通貨が同種同量交換 日本側の事情

2011年12月28日 | 歴史を尋ねる

 オールコック著「大君の都」は、日英修好通商条約調印後の1859年オールコックが駐日総領事に着任して4年後に、一時帰国していた折、ロンドンで刊行された。当時読まれていたぺりーの「日本遠征記」、イギリス全権公使の随員による「エルギン卿遣日使節録」に対抗する気持ちもあった。この本を精緻に読み解くことによって、佐藤雅美氏の「大君の通貨」は出来上がっている。特に「大君の都」最終章(第39章)は日本の貨幣制度と通貨の問題をテーマにしているが、アーバスナットの指摘を受けて書き加えられたものと佐藤氏は推理する。オールコックはこの本をロンドンだけではなく、ニューヨークでも刊行させた。横浜でゴールドラッシュが始まったのち、オールコックは横浜の外国商人やオランダ居留者、現地に駐在している新聞記者から批判の集中砲火をひとり浴びたが、その批判はハリスにこそ向けられるべきだとの思いがあったのだろうと推理する。

 「大君の都」の中でオールコックは、通貨に関してアメリカ人の最初の議論がおかしいことに触れ、「事実と両方の陳述を注意深く考慮してみると、この問題に通じている人なら当然いえる結論は、日本人の議論の方が勝っており、彼等は当面の問題をかなり正確に理解していたということである。4年後にハリス氏が新しい条約の交渉をしていた時にも、日本人がこのときの決心を堅く守っていたなら、彼等もにとって、我われにとってもよかったであろう」と記している。しかし肝心の日本側の主張を書き忘れ、先を急ぐと、オールコックの記述を巧みに利用して、ことの真相に佐藤氏は迫る。確かにごり押しだといっても通商条約の条文に通貨の同種同量交換は書き込まれ締結されている。この間の経緯を次のように整理する。

 ペリーの一行(二人の主計官)に日本の通貨事情を説明したのは、二人の下田奉行支配組頭で、「天保一分銀は政府の刻印を打つことによって三倍の価値が与えられている通貨である。従って価値は三倍の重さのドルラルと等しい。そもそもドルラルは山出し銀や細工銀のようなもの。天保一分銀と重さで比較することは出来ない」といった。 このとき政府関係者、老中首座勝手掛老中も勝手掛勘定奉行も天保一分銀は代用貨幣であるという本質を知らなかった。知っていたのは勘定所の下っ端役人だけで、対応した組頭もその本質を知らない、ただ書状を口移しに述べた、この曖昧な態度が、ぺりー一行をいぶからせ、物価を三倍に吹っかけたとペリーに報告した。その後、日本側は、通貨について何らの調査もしなかった。

 ハリスは下田に上陸すると二人の下田奉行と海防掛目付の岩瀬忠震(ただなり)を相手に同種同量交換の正当性を説いた。岩瀬らはハリスの主張が正しいと思い、上申書を提出した。大目付グループの俊秀とうたわれている岩瀬が云っていることに間違いはないと、上申書を是とした。勘定奉行グループはなにやらおかしいと思いながら、同じく認めた。このグループに水野忠徳もいた。そして通貨の同種同量交換が下田協約の三条に盛り込まれた。その後、貿易筋の取調という名目で、水野と岩瀬は長崎に出かけオランダ、ロシアとの条約を結んだ。その過程で、水野は長崎の地役人から教えられ、天保一分銀の性質を知った。そしてオランダとロシアには一ドル一イチブという為替レートを盛り込ませた。その後岩瀬は代表交渉者となってハリスと通商条約の交渉を始めた。しかし五条に同種同量が盛り込まれた。それは時の総理、堀田正睦が通商条約の締結を急いだ、イギリスの中国沿岸での無法に、ことのほか畏怖したから、イギリスがやってくる前に、艦船を伴わないハリスと、よりよい条約を結ぼうと考えたからであった。堀田は岩瀬に、「ハリスに日本の通貨事情を教えないで、条約交渉に入るように」指示した。岩瀬は拒否したが、堀田は、開港に当たっては、一分銀の三倍の重さを持つ新一分銀を外国人用に鋳造するので不都合はない、と説明した。しかし、堀田は通商条約の勅許を得ようと上京して失敗。すぐに井伊直弼が登用され、岩瀬は井伊からパージされた。堀田から左遷された水野忠徳が井伊に登用され、外国奉行になった。