長崎御用銅の廃止と銅山御預り

2011年12月18日 | 歴史を尋ねる

 佐藤雅美著「幕末住友役員会」の力を借りて、幕末激動期の住友の苦闘を追いかけることとしたい。ペリーがやって来た、プチャーチンがやって来た、ハリスがやって来た、幕府の官僚陣は彼等がやってくるたびに、緊張し、身構えた。目的は交易にあるだろうことは容易に想像がつく、「何」を求めてか?「国土の筋骨」である「銅」に違いない、交易をはじめれば間違いなく銅を抜き取られる、幕僚陣はそう考え、身構えた、と佐藤氏は云う。この時代、日本の大砲は鉄ではなく、銅を素材としていた。軍需素材として銅は欠かせない。具合悪いことに、長崎ではオランダ人と唐人に輸出品として銅を売り渡している、求められれば拒みにくい、ならばどう振り分けるか、幕府は大真面目に悩んだ、プチャーチンが長崎にやって来たから、幕府官僚陣の江戸ー長崎間の往来は頻繁になった。よく見ると、銅を不当に安く売り渡している。こんな不当な交易はやめさせなければならない。

 安政4年(1857)オランダを相手に和親条約の追加条約を締結、銅の原則輸出禁止条項を盛り込んだ。そして長崎会所の対蘭貿易は終止符を打った。対中貿易は、太平天国の乱で中国側の貿易商が没落、こちらも事実上終止符を打っていた。幕府が五ヶ国と通商条約を結んだのは、オランダと追加条約を調印した翌年、安政5年(1858)で、銅の原則輸出禁止条項が盛り込まれた。しかし産業革命による各種技術進の進歩で、世界の産銅量は飛躍的に伸びつつあった。アメリカやイギリスは驚異的に産銅量を増やし続けている。製造コストも安い。日本の開港後の貨幣価値の見直しで、銅器・銅製品の買いあさりはなくなった。慶応2年(1866)江戸の勘定所から長崎御用銅廃止の沙汰を住友は受け取った。更に買請米(別子銅山は米を全量買い求めねばならない、住友は幕府に要請して別子銅山用に毎年六千石の幕領米の支給を受ける許可を得た。その後代銀は何度か改変があり、幕領地の時価となったり割り引いてもらったりした)も御差し止めとの達し。米が減らされれば休山に追い込まれる、それまでも長州征伐時、米を減らされて休山の危機に追い込まれたこともあった。別子銅山の責任者だった広瀬宰平はその都度奔走した。銅山に於いて生活するもの凡そ五千。

 慶応4年1月7日、宰平の下に急飛脚、幕府の兵が鳥羽伏見で薩州を主力とする兵に敗れたとの報、幕府が倒れれば銅座がなくなり、直売り、自由販売が出来る、儲けは桁違いに増える・・と思ったが、吹所にある銅蔵はすべて薩州の市中見回り隊に封印された。通貨の発行権は幕府にあったが、薩摩藩はせっせと天保銭を鋳造していた。 それ故に、大小砲器の製造、修理、砲台の建設も、聊かも差支えなかったとの文書も残っている。この時期の住友の経理内容は、焦げ付き同然の大名貸しを別にして、累積資本はほぼゼロ、年度の損益もほぼゼロという状態だったという。しかも銅座に売り上げた銅代金が入金しての話。薩摩に続いて、銅山は土州(土佐)の支配下になった。「土州少将当分御預り別子銅山出張所」の表札が立った。責任者は河田元右衛門(のちに川田小一郎の名乗る、三菱の創業を助け、日銀初代総裁となる)。広瀬宰平は河田にお目通り願って、別子銅山の開坑の経緯を説明、幕府の直山でないこと、今のままでは五千人の住民が路頭に迷うことを訴えた。広瀬は河田の銅山見聞に付き添いながら、河田から幾度となく岩倉具視の名前が出た、住友の願の筋は京に行くことに誘いがあった。すぐさま鷹藁源兵衛に相談して、朝廷宛永代請負のため、永代冥加金として精銅を献納、同様に土州にも献納、更に岩倉に金子を贈る。早速岩倉は宰平に会うことを約束、土州からの意見書は自ら銅山を運営することとなっていたが、新政府の銅政策は幕府の銅政策を踏襲する太政官布告が示達された。