別子銅山の不振と金融業の行き詰まり

2011年12月14日 | 歴史を尋ねる

 鷹藁源兵衛と広瀬宰平のヒソヒソ話はまだ続いた。「わしらはお上、御公議のためにも働いている。御公議はオランダとの交易はやめられぬ。それは海外の風聞を仕入れる唯一の窓口がなくなってしまう。オランダの交易船が年一回入港してくるたびにオランダ風説書を出させている。そのほかに西土(西洋)の珍しいものにも触れたい」「世の中がひっくり返って、自由に交易ができるようになると、えろう儲かることになりまんな」

 源兵衛が住友家本店の副支配役に登用されたのは天保6年(1835年)38歳の時であった。別子銅山ははげ山であった。台風や暴風に見舞われるとひとたまりもない。鉄砲水で住居や施設があっという間に流される。膨大な薪炭を必要としたが、失火で一挙に燃えてしまうこともあった。坑内湧水と天災人災で、産銅量も思わしくない。天保8年には大塩平八郎の乱が起こり豪商が軒を並べる船場の北が戦火に焼かれた。住友の店舗も類焼し、住友の経営は行き詰まった。天保10年、源兵衛は本店の最高責任者に登用された。あくる11年、源兵衛は銅山改革案をまとめ、誰でも考える賃金カットに経費削減、御用銅定数減の願い出、これに休山を覚悟し、捨て身で願い出た。この間別子銅山は赤字続きで、住友第一の家産どころか、金食い虫になってしまっていた。

 源兵衛は銅座(幕府)を相手に値上げ交渉を始めた。それでも地売銅の買上価格よりまだ低い。銅座はすげなく願書をさしもどした。すると「お聞き届けなきうえは、やむをえず休山よりほか方策これなく・・・」と源兵衛は勝負にでた。銅座はたじろいだが、無視した。源兵衛はあくる年、御用銅定数減、諸手当の下付、御用銅の値上げに付帯条件をつけて願い出た。休山となれば、稼人の引き払い費用として8000両を貸与であった。時あたかも天保改革の真っ最中。「商品の値段はすべて二割以上引き下げ、賃金、利息、家督銀、細工手間、手伝い日雇等、みなこれに準ず」との触れがでたばかりだった。徳川250年、素町人の分際で、幕府、公儀に大胆不敵な要求を突きつけた者はほかにいないと佐藤氏はいう。立て続けに、幕府が管理を委託している松山藩に一万両の拝借を願い出た。そして、ついに休山願を出した。幕府もしぶとかった。休山はまかりならぬとの達し。源兵衛も進退きわまった。値上げの嘆願を銅座に出しながら、銅山の稼手には合理化案を提示、のめないものは勝手次第で離散も結構とのぎりぎりの遣り繰り。

 一方住友の両替店も乱脈経営で帳簿を整理すると巨額の借金、年内に返済を迫られた金や利息も巨額に膨れ上がり、その始末に住友当主友聞(ともひろ)の次男を帳切(経営から引かせる)、本店からの資金で応急手当。江戸で札差業を営んでいた浅草米店が「天保の無利息年賦返済令」で借金棒引きに合い、一挙に赤字に転落。住友はいたるところで火を噴き最悪の事態を迎えた。源兵衛は逆鱗に触れるのを承知で、二十か条に及ぶ意見書を旦那(友聞)若旦那(友視)宛てに提出した。意見書を提出したあと、源兵衛は病を理由に引きこもった。友聞はにわかに荒れだした。そして遂に源兵衛は友聞に隠居を進めた。友聞はきかなかったが、再度源兵衛は本店の閉鎖、隠居がいやなら別宅に転居の申し出。長い反目のうちに、友聞は隠居を承諾、源兵衛も隠居の沙汰、そして銅買上価格の値上げが承認された。