越後屋の屋号、ここに濫觴(らんしょう)す

2011年11月05日 | 歴史を尋ねる

 濫觴とは揚子江も水源にさかのぼれば、觴(さかずき)を濫(うか)べるほどに微である意だそうだ。今回は三井グループのその濫觴より下ることによって、日本の経済活動の変化を追ってみたい。

 三井グループの租、三井高利は1622年、現在の三重県松坂市に生まれ、14歳で江戸に奉公に出た。その商才は、当時の松坂の地域性と家庭環境があって育まれたと、三井広報委員会は云っている。三井越後屋の屋号は、高利の祖父三井高安が越後守を名乗っていたからといわれている。三井高安は、近江の国鯰江の武士で、守護大名六角氏に仕えていたが、織田信長軍と戦って破れ、六角氏とともに、伊勢の地に逃れた。その20年後、蒲生氏郷(うじさと)が松坂の地を開いた。氏郷の父、賢秀(かたひで)も六角氏の家臣であったが、信長の家来になって生き延びることを選んだ。そして嫡男氏郷は人質として信長に差し出され、彼の非凡さを、信長は愛した。信長の死後、秀吉に仕えて松ヶ島12万石を封じられた。氏郷は城を築き、その地を松坂とした。氏郷は商業こそ町の発展のエネルギーと考え、近江の国から有力な商人を松坂に住まわせた。近江商人の商売の心得は、売り手よし、買い手よし、世間よしという「三方よし」であった。商売の取引は、当事者だけでなく世間のためになるものでなければならないという哲学は、三井越後屋の精神のひとつでもあったという。氏郷は伊勢神宮の街道を松坂に引き込み宿場町の機能も持たせた。商都としての気風が、武士から商人になる者も多かった。そのひとりが高安の子、高俊であった。高俊はこの地で質屋を営み、酒や味噌、醤油の商いもした。人呼んで越後殿の酒屋という。越後屋の屋号、このに濫觴すと司馬遼太郎の一節がある。

 高俊の妻(高利の母)殊法(しゅほう)は伊勢の大商家の娘で、当時の「越後殿の酒屋」を実質的に支えるほど商才に長けていた。高利にとって商道を学んでいく上で、恵まれた家庭環境であると同時に、飛躍するスタート地点でもあったようだ。高利の奉公先は江戸日本橋の呉服商であった。徐々に才能を開花させ、18歳になると一軒の店を任され、眼を見張るほどの商才を発揮した。しかし郷里で兄が病死し、28歳の時店を辞して帰郷した。やがて松坂で家業を拡張し、更に金融業を営み、資金を蓄積した。そして長男を江戸に奉公に出し、長男が育ったところで、京都に仕入れ店を借りて、江戸では随一の呉服店街で店舗を借り受け、「越後屋八郎右衛門」の暖簾を掲げ、呉服商を開始した。当時は将軍家光の時代となって江戸の町が急速に発展していく途上であった。老舗大店が軒を並べるなかで、高利は次々と新商法・新機軸を打ち出し盛況を極めたという。その一は掛売・掛値を廃止して現金取引を始めた。その二は呉服反物の切り売りを始めた。当時同業者間では切り売りが禁じられていた。さまざまな営業妨害を受けながら、幕府の呉服御用達を命ぜられるようになった。